ムー大陸は伝説の国であり、SFの世界では欠かせない存在だ。
こんな感じだ
かつて太平洋の真ん中に大きな大陸があり、数万年前まで地球で詠歌を誇っていた大国があった。自ら作り上げた文明は、道を誤り、おごりと争いが充満していた。神の怒りにふれ一瞬のうちに海に沈んでしまった、というものだ。
空想科学小説という立場では、空想が膨らんでいく説でもあり、例えば、今より文明が進んでいた。大西洋にあったアトランテイスと最後核戦争になり、そのひずみが、地球の地殻変動につながった。あるいは宇宙人あるいは神と交信していた、最後は神に見放され罰を受けた。人類を作り直すために、神により、滅亡させられた、などがある。
最近ムー大陸は太平洋の真ん中ではなく、タイ、ニューギニアの周辺で、アジア大陸と陸続き、の場所だったという、新たな説が出ている。時代も、数万年前ではなく、1万年強前まで存在していたといものだ。
ここからは歴史事実だ。今から1万2000年前、明らかに地球規模の地殻変動があった。それまで長く続いた寒冷期から突然温暖化へ変化し、大陸に積もっていた膨大な雪が解け、太平洋に流れ出し、一挙に地球の海面の高さを200メートル上げてしまった。そして千数百年のちに、海面は上昇したまま、寒冷期に戻っていく。
200メートル海抜が上がれば、かなりの面積の海岸沿岸陸地が海に埋没する。現にその時、日本列島は、アジア大陸と離れ離れになった。それまでは日本は大陸の一部だったのだ。ほとんどの教科書に載っている。
エンケ彗星は現在観測されるが、約2万年程前に崩壊した、より巨大な彗星の破片のひとつと考えられている。エンケ彗星の元となった巨大彗星に由来する大彗星群が12000年前地球を襲い、その一部がヤンガードリアスと呼ばれる再寒冷期気候変動の引き金にもなったと仮設されている。
これだけの変動があれば、東南アジア沿岸で、かなりの面積が海に沈んだと、推測される。
沈んだ地域はスンダ大陸あるいはサフル大陸と命名された。大陸とは言うが、東南アジア沿岸と現在は島々になってしまった領域が広くつながっていたというものだ。現に現在その領域は広い大陸棚が存在する。大陸棚は不思議な存在だ。海産資源の宝庫でもあるが、12000年前の大規模変動縄文海進でそれまで平野だった土地が沈没したと考えられる。かなり広いエリアだ。
当時は寒冷期で、赤道周辺が生活に適していた。12000年前は縄文期だ。現存する縄文期の文明程度があったとしても不思議ではない。縄文期文明といっても馬鹿にできない。現在でも驚異的と思える創造性と精細化技術の火炎土器、骨格器具が例だ。
世界の文明の発祥は、メソポタミアで、ウバイド文明が7000年前に見受けられた。発展的にシュメール文明が6000年前に形作られ、言葉、文字、天文学、数学、農耕技術が完成された。そして4000年前アッカドに征服され、遺跡となって現存する。遺跡にはなったが、その文化や人々ははもちろんアッカドに引き継がれ現代の基礎となり活きている。と言うのが定説だ。
もしその程度の文明が、偶然良好な気候のスンダ大陸でウバイド文明発祥以前に発生していたとしても、何の不思議でもない。シュメール文明が、その前段から遺跡となるまで3000年だから7000年前の出来事が、15000年前に起きていても、地球と人類の歴史からみれば、ほんの誤差範囲だ。
縄文文明は16500年前に当時寒いアジアの日本で営んでいた人々の遺跡が発見され時代 Jomon Period が定義された。そうであれば、もっと気候温暖なアジア赤道でもっと古くから文明が発展していたと仮定しても無理はない。その後15000年前か16000年前に当時気候の良好な東南アジア赤道領域で、上記のウバイド文明程度が発生して、縄文文明がさらに発達し、シュメール文明程度が形成されていたとしても、なんら不思議はない。
シュメール文明が発見され解析が始まったのは、ほんのこの100年だ。200メートルの海底にシュメール文明遺跡程度のものが沈んでいても、見つからないでいままで来ても不思議ではないと思える。1万年経つと、遺跡は石であても藻屑と化す。
仮にシュメール文明程度であったと仮定しよう。そして12000年前の全地球的地殻変動によって、海に沈んだ。当時1週間程度以内で数十メートル以上海抜が上がった。200メートルの沈没は数か月以内の出来事だったようだ。
ほとんどの人と文明は壊滅するだろう。しかし海から離れて海抜数百メートル内陸のところに生活していた人々は、津波を避け得れたはずだ。また船で逃げた人もいただろう。その後の天候不順は想像がつく。また温暖化によって赤道付近は生活が適さず、高地へ移動するか、緯度の高い北の東南アジアに移動する必要がある。かなり壊滅的ではあったと想像できる。そうであったとしても、その文化、技術、言葉を細々と、伝承して生きてきた人々はいたのではないか? 当時航海術もそこそこあったろう。シュメール文明は航海術にたけていて、世界中に広まったといわれている。ムー大陸でもそのようなレベルの文明であれば、後世レムリアやアトランテイスと呼ばれる文明圏とも交流があった、またはルーツが同じであったと仮定できる。
ジャワ島 グヌンパダン遺跡の例
インドネシアのジャワ島 海抜885メートル、加工された火山岩で覆われたグヌンパダン遺跡は、ジャワ島のチアンジュール(Cianjur) から南西50km程行ったところのKaryamukti 村にあります。この遺跡は現在、幾つかの異なる時代に建てられたことが判明されていて、その古いものはアメリカの年代測定専門機関であるベータ・アナリティック・ラボ社によれば氷河期だった頃の2万年前、カリフォルニア工科大学で博士号を取得した地質学者Hilman によれば26000年前まで遡るものだとされました。また、2012年に当時のインドネシアのユドヨノ大統領によって調査が行われ、インドネシア国立原子核庁によって行われた有機物による炭素14年代測定によって、グヌンパダン遺跡の建造はエジプト文明よりも少なくとも数千年は古いものだということが判明しました。
ひょっとするとそれ以降の縄文文化を発展させてきたのは、それらの人々だったかもしれない。またそれらの人々は漂流流浪して日本列島に漂着し列島の人類の歴史に関与したかもしれない。その視点で歴史をつないでみたい。
タイ北部(ヴェトナム北西部) バンチェン王国説
8000年前 当時気候の良いタイ北部にバンチェン文化があったとされる説がある。ムー帝国沈没から4000年後であり、ひょっとするともっと古いかもしれないが、遺物が年代確認できていない。ムー大陸から生き延びた人々が、文化を維持伝承できず、気候の適当な北西に移動しながら、また少しづつ文明を再現させながらやっと文明レベル、国家レベルに作り上げてきたのではないか。そこからさらに文化が広がるルートは航海が速い。アジア沿岸北上が一つのルート、またタイ、ミャンマーなど西部から航海でインド、インダス、メソポタミア、ヨーロッパまで広がる起点となったと夢を広げれば、壮大につながっていく。
そこから、まず北ルートを見てみたい。
中国南部 三星堆積遺跡 バンチェン王国などとの交流拡大説
あまりに文化特徴の連続性のない遺跡が中国南部でほんの30年前に発見された、解明が広く始まったのは最近この10年だ。
7000年前頃 三星堆遺跡は地層から7000年から5000年前の遺跡とも言われ、同地域では12000年前から7000年前とも推定される縄文人骨も発見される肥沃で文化の継続的な地域だ。詳細な解明が待たれる。
事例:多くの歴史の謎を解明 三星堆遺跡
12月 24, 2007
中国古蜀文明シンポジウムで、四川省巴蜀文化研究センターは、三星堆遺跡と金沙遺跡の発見と研究により、古文書や伝説の中で伝えられていた多くの謎が解明された、との考えを明らかにした。
成都平原の広漢市で発見された三星堆遺跡と金沙遺跡によって、3000年近くの間消失していた古代の輝かしい文明はよみがえった。この発見は中国の古文書に記されている神秘な古蜀国の存在を実証した。
三星堆遺跡および金沙遺跡と東南アジアで発見された青銅器時代の遺跡との緊密な文化関係は、古文書に記された古蜀人が南部の雲南に移動したとの歴史や、蜀王に率いられた蜀人の大軍が南部に遠征しベトナム北部の高原に建国し、国が滅びてから東南アジアの島に逃れたとの歴史を実証するものでもある。
三星堆遺跡は像を食畜としていた形跡があり、また古インド、インダスのトラビダ語などともつながりがあると、明らかにされつつある。インダスから東へ文化が流れたのか、あるいはその逆でバンチェンから西へ文化が流れたのか、興味が尽きない。解明が待たれる。本説ではアジア ムー大陸(バンチェン大陸)から北のアジア文明、西のインダス、メソポタミア文明へと文明が流れたとの立場をとる。
次に西ルートをつないでみる
今から7000年前、つまり
紀元前 5000年ころは メソポタミア南部にウバイド文明があらわれた。灌漑農業で文明を築き上げていった。そのもととなる文明がまったくわかっていない。遺跡から見ると突然現れたといわれる。
その発展として
紀元前3800年ころから有名な、高度なシュメール文明が現れた。楔文字や粘土板による記録、天文学や現代にいたる基本的技術が発明され、文化は周辺に拡大していった。国が形成され、広がっていくにつれ、国同士の争いも始まった。気候変動があり、国家の不安定さにつながっていた。
紀元前2600年 シュメール国家周辺に、鉄器をあつかうヒッタイト文明が起きた。この鉄器文化と、シュメール文化を引き継ぐアッカド文明が、ここから全世界へ文化が広まったと通説でいわれている。
つまり、7000年前からメソポタミアで文明が形成されてきた。もしも、ムー帝国の生き残りの子孫が、12000年前から気候の良い北西へ北上、バンチェン文明を立て直し、その8000年前からさらに1000年かけてそこから、西へ航海で移動し、インド半島を経て半島より北部で気候温暖で、大陸が狭まり人の出会いが多くなるこのメソポタミアに至り発展したと仮定すると、新たな歴史のつながりが見えてくる。
つまり新説はこうだ。
今から12000年前の縄文海進で、東南アジア沖スンダ大陸(ムー帝国)が海に沈んだ。 その文明は紀元前2000年前のシュメール文化程度の文明であり、言葉や文字や天文、数学、農業、航海術の基礎技術が形成されていた。 ひょっとして製鉄、精銅の可能な文明レベルだったかもしれない。 大陸沈没前は航海術により広い範囲で文明の拡大があった。当時は寒冷期であり、赤道周辺の沿岸地域で拡大していた。そのなかにはインド洋のレムリア、大西洋のアトランテイスという文明エリアを形成し、交流があった。それらはすべて200メートルの海底に沈んだ。そのムー帝国の生き残りの子孫は、文明の記憶をたどりながら助け合い、少しずつ文明を再生させ、4000年かけて徐々に東南アジアバンチェン文明をまず再興した。 文明は、そこからさらに1000年をかけて東西に広がり、メソポタミア文明や古蜀文明と全世界に広がり、また1000年かけてムー帝国スンダ大陸の文明レベルにやっとたどり着いた。 さらに6000年かけて現代に至った。この12000年前の洪水の記憶が、伝説や宗教上のノアの箱舟伝説などになって伝えられ、世界各地に広がっていった。
なんとロマンと現実性のある新伝説でしょうか!
まとめると、12000年前の縄文海進で200メートル海抜が上昇した事実に基づくこの新伝説の考えでは、東アジアだけでなく世界中で今の海岸近辺にある地域が、かなり海に沈没した。 ほかにも同様な文明が興きていたかもしれない、あるいは航海術があれば、スンダ大陸から陸続きのインダス、アフリカ、メソポタミア、ヨーロッパであれば数百年くらいで文明は伝搬する。 そうであれば、それらは大西洋南部でアトランテイス、インド洋でレムリアという沿岸の大陸の文明になったという仮説に発展する。 であれば、とても納得しやすいですね。
2018年2月12日 鈴村延保