薫風寮謳歌

プロローグ

時は昭和48年3月

「君は比呂島大学に行くのか?」電話の向こうで、牛田が聞いてきた。彼は高校の同級生で、比呂島大学受験に、当時開通したばかりの新幹線で同行した受験仲間だ。眼鏡をかけていて、俺と同じく角ばった顔で、ちょっと理屈っぽい学者の感じだが気安い奴だ。「そうだなあ…」ちょっと返事を迷っているとさらに話しかけてきた。「…俺は2期の志津岡大学にいくつもりだ、薬学部に受かってた。ちょっと悩むが薬剤師も将来いいかもな、先生になりたい気持ちもあったが」

俺はそう言われて、少しだけ考えた。私も同じ志津岡大学を受けていて1次志望の電子工学は落ちたが、2次志望の情報工学には受かったと連絡が来ていた。学部は全然違うが、知り合いがいれば、気持ちが楽だ。

もう一人の友人佐藤の顔が浮かんだ。彼も眼鏡をかけて華奢な感じで一見進学校の生徒っぽい。しかし彼はサイクリングが趣味で、サイクルスポーツという雑誌を俺に紹介してくれた。高校生なのにマースバーハンドルのロードレーサーに乗ってるそうだ。さすが付属中学出身者は垢抜けてる。俺は普通の通学自転車だ。一応5段変速ではあるけれど。俺の自慢と言えば、この自転車で春休みに和歌山の潮岬に中学の同級3人でテント泊りのサイクリングに行ったことと、夏休みに大阪万博に高校の悪友と二人で自転車で行ったことくらいだ。これで仲間と思ってくれたのかもしれない。授業の合間の休憩時間によく二人でパスファインデイングの話をした。夜叉神峠はいつか登りたいね、とか、とりとめもない夢をよく話した。佐藤という友人とサイクルスポーツという雑誌が私のサイクリング人生を始める恩人だった。小6のボーイスカウト体験もキャンプ生活に慣れ親しむ機会だった。本も好きだった。世界を広げる。本はアルバイト代で買っていた。高校1年の時だけ週末土日アルバイトをしていた。タヨト自動車の元町工場塗装ラインの掃除作業だ。土曜日夜3時間900円、日曜日終日で1300円だった。これでサイスポやCyclingという写真集のようなサイクリング雑誌を買って読んでた。家には親父が購読していたアマチュア無線の専門誌「CQ」だったり、「無線と実験」が山と積まれていた。私はそれらを毎晩毎晩布団の中で読み返すのが好きだった。妄想家ぎみだったかもしれない。窮屈な大学受験生生活が終わったらサイクリングを本格的に始めるぞと夢を膨らませていた。彼は彼で東京に行くと言っていた。かっこいいサイクリストになるのだろう。

「そのつもりだよ、比呂島大学に行くよ」「一次希望の電子工学をやりたいから」

私は中学1年の時に親父の勧めでアマチュア無線技士の電話級講習会を受けて合格していた。講習会だからだいたい受かるらしい。親父は当時珍しい1級アマチュア無線技士でモールス信号通信もできる。家にはでっかい短波用八木アンテナが立っていて、南極の昭和基地とも無線通信したのをにこにこしながらよく自慢してた。無線通信機は真空管を使った自作機械だ。受信機の自作は無理で、アメリカのドレイク社R1という当時アマチュア無線仲間では垂涎の的の機械を使ってた。中古で買ったらしい。よくはわからないが面白いなとは思ってた。親父は結構厳しいが、趣味の話をするときは、にこにこして話す。電子部品や半田つけ工具は転がっている。そのせいか、電子工作は大好きだった。

「そうか、お互い頑張ろうな、じゃあ」と牛田が電話を切った。ちょっと寂しい気持ちがよぎった。比呂島大学は西日本の彼方広島にある。小学校の時ボースカウトのジャンボリー大会で岡山津山には行ったことがある。貸し切りバスで丸一日だ。もっとずっとむこうだ、遠い。修学旅行は京都で、それらより西は中々想像できない。志津岡大学は一応東隣静岡にあり、3年になれは浜松校舎だ、愛知の家から近い。

別の考えもある、そんな珍しいところ、滅多に行けない。静岡なら社会人になっても東京に行きがてら寄れるだろう、夜叉神峠は静岡から近い山梨県だから、またいつか行けるだろう。広島は九州も四国も近いぞ。サイクリング始めるなら最高だな。気持ちを整理する理由にもなったのだろう。

まあ、なんとかなるさ。

入寮

4月7日だったと思う、入学式の前日だ。私は薫風寮に着いた。もう少し旅路を詳しく言うと、トンネルの多い山陽新幹線で瀬戸内海をしみじみと見ながら、広島駅に着いた。瀬戸内海は、とにかく島が多い。私の生まれは濃尾平野の東端三河で矢作川は見えても海は見えないから何度見ても珍しかった。山の遠景はどこに行っても同じだな、とかも名古屋駅で買った駅弁を食べながら感じていた。桜は咲いて天気はしばらく良かった。瀬戸内海沿岸は温暖なのだ。すこし春霞かかった瀬戸内海の遠くの島々は墨絵のような趣のある景色だ。広島駅に到着し、南側の従来ながらの国鉄駅を出ると目にする路面電車の景色はとても珍しかった。電車の動く音も新鮮だ。ゴーンという線路と電車の響きが電車が動くたびに聞こえている。

薫風寮は皆実町の東奥まったところにある。翠町も近い、寮は翠町だったかもしれない(正確には広島市南区出汐2丁目)。大学入試では路面電車で千田町で降りたが、その先皆実町だ。どの路線でも宇品港行きに乗ればとりあえず行ける。皆実町商店街はちょっと当時でもレトロ感がある。狭くてずっと先までまっすぐだ。いろんな店が並んでいる。日常の買い物はここで出来そうだ。突き当りまで行くと、商店街はさびれて皆実高校のコンクリートの壁に行きつく。行きつく手前左側に焼肉定食屋さんがぽつんとある。床屋もあったが、小さな四つ角を過ぎると倉庫街(日通の倉庫、旧広島陸軍被服支廠)になってきて、あれ寮があるのかなと思う。桜の木も5,6本あって咲いている。高校の校庭端の桜か。結構古い桜の木だ。経路図が入寮書類に入って送られていた。かばんは大きくはなかったので歩いて探すのは苦ではない。荷物は先に布団と段ボール箱二つくらいで送ってた。到着してるか不安だったが洗面具くらいはバッグに入ってたかとは思う。(倉庫街の入口、つまり倉庫の西あたりは現在は市街地開発で南北に通る四車線の道路が通っている)

南へ300メートルはあるかと思う直線の赤煉瓦倉庫の前通りを歩ききって、左へ曲がると寮の建物と思しき入口が見えてくる。その先は行き止まりのようだ。しかし前を歩いてきた赤煉瓦の倉庫と同じみたいだな、倉庫の改造か、まあこんなもんか、寮費は安い、それが一番だ。寮仲間がいれば気は楽だ、何事も相談しやすい。第一印象はこんな感じだ。赤煉瓦倉庫3棟の西棟が寮だ。残りの赤レンガ倉庫はすべて日通が借用しているそうだ。寮の管理人室は北向き入口の入って右側だ。入口左には掲示板があり、アルバイト募集の張り紙が張られている。入口正面は2階への階段でやけに幅の広い階段だ。倉庫荷物の搬送階段のままだ。入って右に卓球台がある。左側は薄暗くだだっ広い自転車置き場で、乗れそうな自転車や乗れなさそうな自転車が数台おいてある。右奥は風呂場とトイレがありそうだ。右前奥は洗濯場だな。一階の部屋は5部屋くらいか、少なそうだな。などいろいろ考えながら部屋に向かう。一階は入口以外光が入る窓がない。もともと倉庫なので、そうだわな。電気が消えると昼間から何も見えないので24時間電気がついているそうな。居室は3階建てで2階の南西奥で部屋の広さは17畳だった。5人部屋という。確か相部屋という事前情報しかなかった。2階の西端、わが部屋の出口すぐ左はコンクリートでできた洗面場と、そのこちら側にガス台2台がある。ガスはただで使える。最高の場所だ、家からコメは送ってもらえる。なんて考えたかもしれない。

2階も、南側が寮生の部屋で、5室だった、両端の部屋が17畳で、ほか3部屋は少し狭く14畳程度だった。両端の部屋だけちょっとだけはみ出してる。広さは正確には知らない。あまりほかの寮生の部屋に入ったことがないので、記憶があまりない、と言うか足の踏み場がないので、入れないし、部屋の広さがわかりにくい。2階北東は集会所で寮会合があると、ここが使われた。だだっ広い部屋だ。北西にもう一部屋17畳の部屋があった。入寮希望が多ければ使われたか、過去使われた部屋だと思うが、今は自由に使えるその他の部屋、という存在だった。階段の北側はバルコニーに通じる出口だ。扉は空きっぱなしで、出ると北側がそこそこ一望出来、日治山のテレビ塔が見える。洗濯ロープに洗濯物がかけて並んでいる。場所は広いが、洗濯ロープをひっかける場所とロープがない。各自調達かな。あとのスペースは通路でこれがやけにだだっ広い。北側の部屋と南側の部屋の通路の距離は7メートルくらい、通路というより残り空間だ。西側洗面所の西壁には中央高いところに縦長の窓が有った。ちょっと欧風の教会の窓にも似てる。北側バルコニー出口の光と相まって電気が無くてもなんとか動けるくらいの明るさはある。3階へ行く階段はあるが、部屋は無さそうで、物置に使われているようだ。のちに物見遊山で上がったことはあるが、薄暗い中にがらくたが見えた。2度とはいかなかった。暗くて幽霊が出そうだ、一人ではそんな勇気はない。歴史の古い国立大学は、寮はこんなもんかと思ってたりした。すると寮生は定員でも25名くらいにしかならない。あとで知ったが、上級生になると、同室の人が徐々に退寮していき、だんだん一部屋一人か二人で占有するようになる。こうなると、人によっては天国らしい。さらに後で聞くと、寮は定員53人、1階6室2階5室の計11室で、昭和40年に国から借りて寮としたそうだ。その後、薫風寮は比呂島大学の西条移転と同時に1995年3月に閉じられた。

部屋には、私と同じ新入生の、もう二人が来ていて、かたずけも終わったみたいだ。私は愛知から一番長旅をしてきたようだ。九州小倉の山崎くんと四国松山の田中くんだ。たしかに少しだけ近い、社会で使った日本地図を頭に浮かべて想像した。先輩が二人同室で定員いっぱいの5人生活だそうだが、姿は見えない。どんな人達なんだろうか。

初日は、とりえず新人3人で皆実町商店街の定食屋に夕食を食べに様子見に行ったのではないかと記憶をたどる。そのあと新人歓迎会が予定されている。七時半か八時始まりだったと思う。

新人入寮歓迎会

寮の入寮歓迎会は伝統的行事だ、と本に書いてある。古き良き伝統を受け継ぐ寮のそのまたイベントの代表の一つだ。始まる前に部屋で三人でひそひそと話す。おい、酒を勧められるそうだぞ、飲んだことあるか? 正月にお神酒をおちょこにほんのすこし飲んだぜ、飲めなくはないぜ、とか経験談を話している。どんな感じになるのだろう。青森のなまはげのような先輩がイメージで出てきた。子供を泣かすように仁王立ちになって表れるのだろうか?恐る恐るというか、それよりは、あきらめて時間になったので行くか、という感じで集会所に集う。集会所は当然和室で30畳はありそうだ。もっと広いか。東西に細長く長机がロの字に並んでいる。じつは歓迎会の記憶が正確に残っていない。なにせ翌日は二日酔いだ。以下推測である。

新人は正面上座というのか東側の一列に着座する。みんな座布団はない。というか全員座布団はない、適当に長机に沿って座る。机の上には新聞紙の上に駄菓子というか酒のつまみが、適当に塊になって、何ケ所か置いてある。するめが有った気がする。ところで会費は出した覚えがない、参加者も払ってないだろうし、有料ならきっと人数集まらないだろう。とするとこの費用は誰が出すしくみなのか? とは当日は考えていなかったが、思い出してみると、不思議だ、共益費をほんのすこし積み立てていた気もする。そうだ、だから参加しないと損なのだ。

 長老の寮長が伝統を守る

まず寮長が歓迎の挨拶をする。渡辺さんという。寮長は入寮者のなかで毎年選ばれる。ふつうは最年長者か猛者だろう。どんな、なまはげのような寮長が現れるかと思ったら、なんとジュリーよりか細い、今でいう醤油顔の美男子が登場なのだ。当時1972年男性アイドルと言えば、野口五郎、西城秀樹だが、彼はもっとすらっとして、細いピチピチのジーンズ、襟のある、ぱつっとした袖長の黒色のシャツ、髪はカールし肩より下まで垂れたロングヘア―だ。肌は白く、なんか女性っぽくもある。違和感が何かあるとすれば、それは九州弁を話すくらいだ。この容貌に我々新人は騙されてしまった。

後で聞くと、彼は九州宮崎か鹿児島の出身で寮一番の酒豪であるという。新人は一人づつ挨拶をした、多分部屋の順で1階から2階、そして2階の東から西の順であり、我々3人は最後のほうだったと思う。挨拶が終わり乾杯が済むと、なにか、もうのめのめとなると想像するだろう。いえいえと遠慮して何とか済ますというのが現代的だ。が、新人は酒をもって先輩のあいさつに行く、というか寮長から行けと命令が出た。しきたりだ。仕方がない、一升瓶をもって私は時計回りによろしくおねがいしまっす!と挨拶して酒を注ぐ。左回りに挨拶していく新人との波状突撃だ。出身や学部や部屋番号の話を紹介として双方行う、のが話のトリガーだ。例えばお互い出身地が近ければ、どのあたりだ、の話になり、思いっきり出身県が遠くても珍しがられて話が咲く。返杯が来る、とうぜんだろうな。最初くらいは飲んどくか、てな感じだ。このあたり未だ逃げ方の要領を知らない。だんだん皆酒が回ってくる。人が行交い、雑然としてくる。声もジェスチャーも大きくなる。…やがて、このシチュエーションの殺し文句が飛び交う。おれの返杯が飲めんのかあ、コップを開けて自分も次の返杯が飲みたいみたいな酒豪ばっかりに見えてくる。一年かけて集会を何度かこなすと、裏状況がわかってくる。実は酒瓶はそんなに潤沢ではないのだ。なにせ貧乏長屋だ。用意した酒瓶は限りがある。新人が酒瓶を持ってやってくると酒が飲めるのだ。なかなか離してくれない。

1月は正月で酒が飲めるぞ、酒が飲める、飲めるぞ、酒が飲めるぞ。という替え歌を思い出した。寮でよく歌った。2月、3月から続いて4月は歓迎会で酒が飲めるのだ。

このとき、あまり記憶は薄れて無いのだが、寮長渡辺さんの優しい顔と、ささやきが記憶に残っている。くらくらして休んでいると、やさしく近づいて話題豊富に話しながら、もっと飲め、もっと飲め、と優しく優しく言うのだ。

 寮歌

歓迎会の酒宴の最後は、寮歌の講習会があったように思える。寮行事があれば必ずこれ以降歌うことになる。最後は全員で肩組んで合唱。だったに違いない。こんな歌だった。

時代の潮は荒れ狂い、猛き嵐に備えたる、 …天に轟く、波がしら、… ああ怒涛、怒涛、おお怒涛

 強烈だった、はじめての二日酔い

夜中に突然目が覚める、あれここはどこだ? と考えるいとまもなく、胸気持ちの悪さがわいてくる。トイレには間に合わない。ドアを飛び出して前方横に広がる、コンクリート台で横に広い、水道蛇口が4つ5つある洗面所でげろげろする。まずいぞ、なんてことをしてしまったんだ。あわてて蛇口を全開にする。しかし嘔吐は再び襲ってくる。またげろげろ言う。げろげろの上にげろげろが重なるくらい、息もできない状況が続く。胸が筋肉痛のように痛くなる。肩で息をする。立ってもいられない。片膝ついて顔を洗面場所にほとんど触る位うなだれている。そしてまた嘔吐が襲ってくる。しばらくはこの繰り返しだ。せっかく食べて飲んだのに、全部吐き出すと少し気持ちが軽くなる。そうすると少し考えることができ始める。もったいない。また気持ちが悪くなる。だめだ考えてはだめだ、と放心状態を装う。

似た症状の経験は一度ある。小学校六年生の時自分で小麦粉を溶いてフライパンで通称”だら焼き”を作って食べた。家にあるもの何でもいいから味付けに混ぜた。これで食あたりを起こして38度以上の熱が出た。苦しかった。だから症状になったらあきらめるしかない、という心構えは経験して出来ていたと思う。

布団に戻って仰向きになり天井をを眺めていると、顔が見えた。「おい、大丈夫か?」、2歳年上の新人同僚山崎君だ。彼はまあまあ平気だったようだ。さすが社会人経験者、修羅場をくぐってる。「これ飲め」と言って正露丸か樋屋奇応丸を差し出した。「うん」というくらいが精いっぱいだった。こういうことは、一生忘れない。

翌日の入学式は当然二日酔いだった。朝は部屋のみんなはもういない。「大丈夫か、じゃあ先に行くからな」、と会話をした覚えはある。重い体を起こして、まだ吐きそうになる気持ちを、蛇口から水を飲みながら体の様子を見た。足取り重く市公会堂で行われた入学式には何とか間に合ったが、最悪の初日だった。頭はぼさぼさのままだ。新しい門出の日というすがすがしさの,なんと無いことか。この体調が、どうにもきつく、翌日大学でかけ込んだ医局で急性胃炎と診断され、注射をうたれ、薬がでて、これが一週間続くことになろうとは。

部屋の仲間

 部屋の構成をあらためて見回す 

部屋に入るにはドアを開ける。部屋のドアを開けると、入口にはコンクリートの半畳ほどの土間があり靴はそこに脱いだ。上がり込む途中に一段足をかけ上がり込むと17畳の和室部屋には窓が三つある。正面南と西向きにはレンガ壁に、はめ込みの縦長の窓、部屋の割には小さく見える。窓は洋風だ。幅1メートルは無いだろう。2階だし、人が乗り出して落ちないように配慮してるのか、倉庫時代の窓のままなのかはよくわからない。東側の壁は隣の部屋との境で、板壁そのままという感じだった。隣の部屋の気配は音でよくわかる。ああ隣はお客さんだな、とか。部屋全体はコンクリート壁の上に板壁が張られていた。かなり年季が入っている。落書きもある。真ん中天井に細長い蛍光灯が一つ、二つ。押し入れは入口左右に二つ、天井までの普通の2段になった押し入れだ。押し入れの上段は自然と先輩二人の寝床になった。部屋の人の配置は、歴史的に西側が新人で、なぜか皆自然と机を壁に向けて、部屋の真ん中に背を向ける。相部屋でプライベートに、それぞれ集中したいのだ。進級していくと、壁に沿って左に、つまり反時計方向に位置が動いて行って、つまり昇格して、だんだん東側に至るようだ。新人3人の順番は、どうも入居日時の順のように自然と決まってしまう。私は入口から時計回りで右端だ。押し入れは半分先輩の寝室なので、使おうにも狭い。残った下側押し入れを共同で使う。そこで日頃のタンスが必要だが、そう贅沢にはいかない。そこで自然と皆机の横に服を入れる縦長立方体のビニールラックを置く。とにかく安い。タンス兼用だ。こういう配置だと、必然的に中央がぽっかりと空く。なにかごそごそやるときは、真ん中でおもむろに広げる。なんだなんだと言って、集まってくる。そのうちにビール買って来い、とか、おいてある先輩の酒びんをちょっと開け始める。隣の部屋から聞きつけてやってくる。まあこんな毎日か。そんな姿になるのに1か月くらい経過したのだった。

 難波のやっさんこと、安本さん

大阪出身の安本さんは、一年先輩で、やっさんと呼ばれていた。というかやっさんと呼ばれることが気に入っているようだった。寮の住人をタレントの誰かに例えるとすると、やっさんは間違いなく若き頃の髪の濃い泉谷シゲルだ。または、やや丸い海援隊の武田鉄矢だ。違うところを挙げれば、ちょび髭を生やそうとしていたところだ。20歳くらいでは未だまだ完ぺきな髭ではない。生まれ育った大阪をこよなく愛し、関西人の誇りを持っていた。こてこての関西弁を話し、漫画家永島慎二のコミック安武さんが大好きで、将来アブサンみたいになろうとしていたのかもしれない。南海ファンではなかったが、関西人王道の阪神ファンで、広島カープの地元にきて、ライバル心が燃え上がって、ますます地元愛が膨らんだようだった。

 京都丹波甕岡のラガーマン、千秋さん

京都弁と関西弁の違いは、愛知県で訛りを聞くと、あまり意識しないで聞き流してしまう。千秋さんとやっさんが一緒に話すと、それはもう違いが明瞭だ。華奢で柔らかく、下手をすると女形の演劇人を想像してしまう千秋さんの京都弁に、関西落語か河内のおっさんの歌のノリのやっさんという感じだ。その千秋さんは声を聴くと物静かで、顔の表情も、にこにこして、なんて優しいんだといつも思うのだけれど、全体像がだれに似ているかというと、ターザンを思い浮かべてしまう。まずすね毛が濃い。従って髪の毛が濃く、パーマをして長髪だ。ちょび髭を生やしてる。いつもやっさんがうらやましと言っていた。やっさんもちょび髭を伸ばそうとしていた。薫風寮でははやっていたようだ。ターザンで阪神ファンの千秋さんは高校時代ラグビー部で、部屋にダンベルがあり、毎夜筋力トレーニングを欠かさない。腹筋しながら、京都弁で話しかけられるギャップの大きさにはいつまでたっても戸惑った。大学では私が入部することになる体育会系のサイクリング部所属で優しい、尊敬する先輩だ。

 千秋さん、やっさんの愉快な友達たち

  ネクタイ姿で現れた愛知岡先高校の先輩小島さんは薫風寮205室の一年先輩でLPレコードマニアだった。

  ギターと歌のうまい 服部さん

千秋くんは居るか?といって始めてやってくる人が結構多かった。友人がとても多いらしい。服部さんはその一人だ。

  学生なのにセリカLBに乗った医学部の中西さん

 丸い顔で四国松山出身の、理学部 ぼっちゃん こと田中君

私のイメージする高校生とその延長の大学生姿だと、田中君がピッタリその印象だ。彼は髪は短く丸い幼顔だった。私の中学時代は全員坊主刈りで、その延長で城下町の伝統と文化の薫り高い隣街岡先高校へ入った。高校は教育大学付属中学から上がってくる生徒も多く長髪が多数でギャップにびっくりした。私のイメージは坊主刈りが原点だ。彼は理学部数学科とのことで、若干イメージギャップがあった。聞くところによると高校教師は理学部からも資格を取っていくらしい。

 社会人から学生に戻った、先生志望 九州小倉の 山崎くん

初めて会ったとき、彼は最初からリーゼントの髪型だった。タバコも吸っていたと思う。聞けば社会人になってから、先生になりたいと考えなおして受験勉強しなおしたという。よく机に向かって予習していた。私はタバコも、パーマもしていないし、じぶんは生真面目だと思うが、私よりまじめだという印象をずっと感じていた。まじめというより几帳面であったり、将来に対してしっかり考えていたという表現かと思う。

 部屋は宴会場、なぜなら畳の場所があるから、粗大ごみから再生したテレビがあるから

部屋には私が、ある筋から調達した白黒テレビがあった。

当時キャンデイーズが大人気だった。誰が一番かわいいかで争いになった。だいたいこれで一時間は決着がつかない。

ギターは千秋さんのが放置してあった。勝手に誰かが弾いていた。かぐや姫に吉田拓郎は良く歌った。学生生活をイメージしたときは吉田拓郎、故郷を離れてちょっとセンチっぽくなった時はかぐや姫だ。雪が降る、や神田川、加茂の流れに、赤ちょうちん、22歳の別れ、はどれも広島の夕方の情景がぴったりだった。

 押し入れは寝床、冬はこたつにくるまって、足突っ込んで輪になって 

 なぜか寮歌より覚えている替え歌

時代ーの潮ーは荒れー狂い、猛きー嵐にー備えたーる、 …天にー轟ーく、波ーがしら、… あーあ怒涛 怒涛ーお怒涛ー

と薫風寮歌は寮のイベントがあると必ず良く歌った。しかし今なかなか全文が思いだせない。ところうが替え歌は意外と思い出せる。

1月は正月で酒が飲めるぞ、酒が飲める、飲めるぞ、酒が飲めるぞ。2月は… 3月は… と12月まで延々と歌う。この歌は良く歌っていた。他の替え歌も、部屋の真ん中で。

しかし、次の春歌にはかなわない、どうにも忘れれない。空のビール瓶を両手で持って上下させながら歌うのだ。サンタルチアの替え歌だ。

朝はぴんぴん、昼もぴんぴん、夜もぴんぴん、いつもぴんぴん、ああそれなのに、こんやは、ふにゃふにゃ、なんたーるーちーあ、なんたーーるちーーあー

寮生活

 夕食

私たちが入寮した1年前昭和47年までは寮に食堂があったそうだ。察するに寮生は生活が不規則で朝食、夕食を1か月コンスタントに寮で済ます人がどんどん少なくなって食堂の維持が出来なくなってきたのだろう。となると朝食は大学の食堂か自炊か、軽いパン食ぐらいとなる。夕食は大学食堂で済ましたり、寮近くの定食屋で外食となる。定番でお世話になった定食屋の丹波屋と田中屋は皆実町商店街を西入口近くまで戻り切ったあたりにあった。丹波屋はとにかくご飯の量が多い。田中屋はちょっと上品でちょっと高級だ。懐具合と腹具合で選んでいた。おなかをすかした貧乏学生のために、おばさんとおじさんがずっと昔からやってくれているのだ。学生と話すのが楽しみのようににこにこして、声をかけてくれる。丹波屋さんはご飯がどんぶりに山盛りなので、盛る時おばさんの手がご飯に触ってる感じだったが、まあ良いわ、問題ない。そして、たまの贅沢は、商店街東端にあるしょうが焼肉定食屋だった。大学の学食(学生食堂)の定食Aが130円の時代に980円だ。これはなかり贅沢だ。しかし日頃我慢をすると肉が食べたくなる時がどうしても来る。通りを歩いていると、換気扇からこぼれる、ニンニクしょうが醤油の香りと、中から聞こえるフライパンで肉を焼く音がたまらないのだ。

 住人たち

  同じ電気電子工学科の相棒 橋元君

寮の歓迎会のあいさつで、同じ学科のやつがいると知って、よかった、しめた、うれしいなと思った。橋元君は和歌山田辺の出身で、微妙に違う関西弁を話す。同級生は、わからない事をいろいろ相談し合える。特に講義の宿題の回答のヒントをよく教えてもらった記憶が残っている。彼は答えは教えてくれない。冬は実家からミカンが送られてきて、寮生一同、とても感謝した。身長は185センチをゆうに超え、どちらかといえばひょろひょろしている。顔も長い。バスケットをやっていたとのこと。ジーパンに白いTシャツ、下駄を好んではいていた。吉田拓郎の時代であった。こののち、寮を出た後の学生生活でも、この学科同級生の橋元くんと、同じサイクリングクラブの先輩千秋さんの3人トリオでよく行動した。寮生活はハダカの付き合いで、ずっと遠慮なく話し合えた。三羽烏(ガラス)のほうが実際かもしれない。大学卒業後も、長い付き合いになった。

  寮長の長老 渡辺さん

新人入寮歓迎会の項で、人となりを少し描いた。彼にはエピソードがごまんとある。又ある意味私の憧れの存在でもあった。醤油顔と書いたが、肉食系だとだんだんわかってきた。酒は強い、かっこよい、男気がつよい九州男児だ。人当たりが良く話していて話題に事欠かない、面倒見がよい、アルバイトは彼が元締めで持ってくる。後述の寮祭でのダンパは彼のバンド演奏だ。ロックギター奏者でヴォーカル担当だった。私にとっては雲上の人だった。私はボサボサの天然パーマで将棋駒顔で度の強い眼鏡をかけている。彼はモテモテだっただろうと思う。うらやましい。ただ、なぜ薫風寮に長年住んでいるのか不思議だった。卒業まで寮から離れなかった。この渡辺さんが冬になるとはんてんを着込んで寮を闊歩する。アルバイトのヘルメットにだぶだぶズボン姿も記憶している。このギャップがすごいが、なぜか溶け込んでしまう。それらこそが彼の原点なのかもしれない。彼は最低2年は留年して私と同じ年に卒業していった。私は卒業した時、アパートの荷物を運送屋が全部持っていき、帰るだけになって最後に懐かしい薫風寮を訪ねた。その時丁度渡辺さんがいて挨拶をした。彼は地元宮崎か鹿児島だったかに、これから帰るという。元気でな、と言われて感傷的になった。みんないつかは別れがあるもんだ。

  隣部屋204号室の成瀬さん

  ノンポリ派のだれそれさん

 麻雀の音

一階の真ん中の部屋は、いつ前を通っても麻雀の音がしていた。

 風呂

40年以上経って、我が薫風寮が、記念物になったという。寮が化石になったのではなく、もともと原爆でもレンガつくりの倉庫(旧広島陸軍被服支廠)は崩れず、そのまま残り、寮に活かされた経緯からだ。その寮の頃の思い出を集めることとなった。サイクリングクラブのS48同期の石川君は時々寮にきて風呂に入って帰っていったそうだ。そのとき寮の友は、風呂がぬるぬるしているが、それは水を一か月は替えてないからだ、と言ったそうだ。私は住人そのものである。思い出にしても、事実を誇張していると思う。一週間くらいで水を変えていたと思う。

風呂は、寮の外側、玄関の西に勝手口のように入れるボイラー部屋があり、石炭で沸かしていた。扉を開けっぱなしで炊いていたので、外を通るときに石炭が燃える赤い炎が見えた。管理人さんが時々火かげんを見ていた。たまに寮長の渡辺さんも何故か居た気がする。

 テレビを調達

ある時歩いていたら道にテレビが転がっていました。おじいさんとおばあさんは寮に持ち帰って大切にしましたとさ

 机の調達 

ある時歩いていたら道に机が転がっていました。おじいさんとおばあさんは寮に持ち帰って大切にしましたとさ

 オレは電気係とごはん自炊係

時々、いつもの道と違うところを、ここは何処につながっているのだろうと夕方歩いてみたりしていた。ある時電器屋さんの近くの粗大ごみ置き場に白黒テレビが山と積まれていた。当時粗大ごみは何でも市が回収で持って行ってくれたので、壊れたテレビから、カラーテレビの買い替えでまあまあ動きそうなテレビまで粗大ごみとして月に一回出ていたと思う。私は高校性の文化祭で白黒テレビカメラ映像を真空管送信機に乗せてUHF送信して、体育館から無線部の展示場にTV中継していた。はんだ工作は得意だ。映りそうなテレビもなんとなくピンと来る特技があった。適当に選んで寮で同じ学科の橋木のママチャリの荷台にのっけて二人で寮に持ち帰った。ちなみにこの彼の自転車は寮で放置されていたものを私が直したものだ。寮は日治山と黄金山が近く、つまりテレビ塔がすぐ近くにあり、テレビ電波が強力なので、簡単な室内アンテナをつけると意外ときれいに見えてしまうのを私は知っていたのだ、えへん。部屋の真ん中で、家から持ってきた工具でガチャガチャとやっているとみんなが珍しそうに集まってくる。白黒テレビは見事映った。寮ではテレビは珍しいので喜ばれた。橋木が一台は俺にくれ、と言って部屋にもっていったと思う。彼も電気電子工学だ、あとは何とかする。

そして部屋は娯楽室となってしまった。

私は愛知出身で、家がはんちゃん農家であり、腹いっぱい食べろとコメを送ってくれた。ありがたかった。私はボーイスカウト出身であり、飯盒炊爨はお手のものだった。その延長で鍋でコメを炊けるのが特技だった。時には卵を1パック買って、それだけでみんなで鍋一杯八合炊きだったかを平らげた。

そして部屋は臨時食堂となってしまった。

 学生生活

春桜の時期が、あっという間に過ぎると、緑の美しい、まさに薫風の季節となる。広島市は近くの宇品港まで行くと瀬戸内海の島々の遠景が広がる。すぐ面前の似島から呉方向の江田島に、宮島で有名な厳島などだ。4月は大学御講義が始まるので講座を選んだり手続きが不慣れで不安もあり、あわただしい、景色を見る余裕は最初はなかった。それと併せて、私は希望のサイクリングクラブに入部した。結構イベントが最初からあるのだ。このイベントやクラブライフがあわただしさを増長したが、一方で少し景色を楽しむ時間を作ってくれた。さらに比呂島大学は学友会があり、大学との共同事業など手広くやっていて新鮮だった。新入生交流イベントの一つで大久野島キャンプが催された。普通だったら不慣れな私はそこまで交流を広げないが、入部したサイクリングクラブが体育会のクラブであって協賛していたらしい。クラブ新人は参加せよとのお達しが出た。参加して盛り上げよ、とのこと。そこは体育会系クラブだ。このイベントが瀬戸内海らしいのは、交通手段がチャーターした専用フェリーなのだ。2万人の大学の1学年5000人のそのまた何割かではあるが千人規模の参加者がすべて宇品港に集まり数台のフェリーで一挙に移動する。準備する側の人たちも前日フェリーで大挙移動していた模様だ。島も休暇村のようだがほとんど貸し切り状態だ。育友会すごい。大学とはこうゆうものなのかと、田舎育ちの私は少しづつ目の鱗がとれて育ってゆくのだった。

 落研の定期講談会 at 薫風亭

薫風亭という屋号を持った落語家が大学落語研究会にいました。47年入寮の204室の田仲さんだ。1年で寮を出たので私の時にはたまにおい出るOBとだけ位を知っていた。薫風亭なんとかさんとかと言って名前が思い出せない(のちに千秋さんから聞いて思い出したところでは京都丹波出身なので芸名が薫風亭丹波さんだそうだ)。タレントになぞえて思い出すと目の大きい渥美清だ。筆が達筆で落語の看板のあの妙に味のある文字をさらさらっと書く。もちろん薫風寮出身だ。その縁でよく寮で出前の講談会を開いてくれていた。落語は実技の経験で磨かれると言っていた。後輩を連れて宴を催す。たぶん初めての席とかを寮で経験させていたのだろう。初めて見るライブだ。うまいなーとしみじみ思った。大喜利も即席でやった。賢いなーとしみじみ思った。私は杓子定規で応用力、即興力が全くない。落研に入ったら機転が利くようになるのだろうか? 真剣に考えた。行動力がなかった。そういえば寮祭の看板もこの文字調だった。寮祭の一環でも上演があった。部屋の千秋さんとも友人だった。千秋さんは、とても付き合いが広い、だれとでも仲良くなってしまう。私は常々ちょっとでもその極意を会得しようと思っていた。そういえば千秋さんは時々落研に出入りしていたらしい。千秋さんも講談の真似をして、それを部屋で聴いたこともある。もちろんお酒の入った席だ。それをまた真似してやっさんや田中君が講談もどきをしていた。

 スーパー学部長との春の座談会

薫風寮は毎年の恒例行事として学部長クラスの教授を招いて懇談会を行っていた。必ず参加しろよと厳命が下る。その割に出席者は新人ばかりだった。その日は先輩は用事で寮にいない。面倒なことは新人に回ってくる。しっかり経験しろよ、という先輩のありがたい親切心かもしれない。4月、5月は大学がどんなものかよくわかりにくい。寮はどんなものか、いやというほどわかってくるが、こういった行事は大学の配慮かもしれない。或いはは学生による自治会が大学にはあったので大学に要望しているのかもと考える。新人には貴重な機会だと思う。5月病だってある。このむさくるしい薫風寮にちゃんと足を運んでくださるのだ。あとでちょっと聞いたところでは、学生運動の時期を経て反省もあったようだ。学生との対話不足から大学封鎖に至った苦い経験の反省かもしれない。学部長だからどんな堅苦しい先生が来るかと、つまらなく待っていたところもあるが、とても面白い教養学部部長先生だった。懇談会と表現するより、まさに座談会だった。机の向こうで話をするのではなく、畳の上に車座になり胡坐をかいての話し合いだ。大学という存在の面白さや、研究生活の経験など淀みなく、楽しそうに話してくれる。また関心事なども答えてくれ、それがまた話題の発展にもなる。そうか大学とはそんなところか、と考える機会になった。とくに比呂島大学は、1,2年生はすべて教養学部に在籍し、3,4年生で各学部に異動配置になるという徹底した基礎教養重視のユニークさを売った大学だ。2年生の終わりに、当初入学した学部から違う学部への希望も考慮される。大学紛争を経て大学改革の波の中にあった時代だった。変に印象に残っているのが、先生が「私は睡眠は3時間で十分、何十年とその生活を続けている」と言われたことだった。へー学部長になるような人はすごいな、とか、そういうテクニックを何か見つけて身に着けるとスーパーマンになれるのか?とか大学はそういうことを興味をもってできるところなのかな、とかも再認識した。私はその後、能力開発とか、超能力とか、宗教や宇宙、宇宙人を含め興味が広がった。社会に出てから給料で脳のアルファー波を襷のようなベルトで検出して瞑想力を強化する10万円以上する機械を2度購入して、トレーニングを試したりしていた。2度目はレベルアップ版だ。そのころユリゲラーも話題だった。寮でスプーン曲げとかみんなで騒いで試した記憶もある。誰も曲がらなかった。寮のスプーンは最初から曲がっていた。この座談会は良い意味なのか悪い意味なのかは、結果が示すとして、私をその方面に引っ張っていったようだ。そして現在私はスーパーマンになったかというと、相変わらずスプーンは曲がらないままだ。

 寮生ルック

  冬は、はんてん

 黒塗の車と行列、そうかここは広島

5月は寮祭

 寮祭とは? 

 出店にライブ演奏で、女子大生を招いての人生初のダンパだったかな? 日治山女子短大寮? 看護学校寮? 若竹寮?

 なぜ、こんな寮に女子大生が足を運ぶのか??

 祭りだから神輿をかつぐ、寮祭の打ち上げでだ、なぜか夜だった。そして女子寮に繰り出す! 北の方角だった気がする。

 神輿の奉納先は日治山女子短大若竹寮

  女子寮まで覚えているけれど、寮にどう帰ったか記憶がない

 再び二日酔い

 人生初、女子大生の皆さんとの合同コンパ

 不思議な出来事

 文学部の藤本君

エピローグ

 1年で薫風寮を去る、緑町の銭湯の隣、家賃7000円の4畳半木造アパートへ

 その後の大学生活はサイクリング三昧、学部は落第寸前

 卒論研究くらいは日頃できない苦手なことを! 電子工学科のなかでコンピューター理論研究講座へ

 就職活動は地元愛知県の企業めぐり

 なぜかいつまでも繰り返し見る夢

 薫風寮は魔界か?