始めに
私は日本の古代、特に2000年前、紀元元年前後の時期や、さらには紀元前縄文時代から弥生時代に移り行く時が神秘的に感じ、関心があります。この時期例えば紀元200年前後の邪馬台国、卑弥呼はよく知られていますし、ロマンがあります。
だんだん書籍を読んでいるうちに、私たちへ脈々と続く先人たちが一生懸命努力して作り上げた素晴らしい日本の姿を、具体的鮮明にできないかと思い、さらにその時期前後の歴史資料を読み始めました。
この頃の歴史書物情報は、日本には一般には紀元700年ころにまとめられた古事記、日本書紀程度しかないと言われ、それを補完する海外の情報として中国の魏志倭人伝(三国志、魏書)がよく引き合いに出されます。
ところが古代伝承情報は、調べていくと実は相当膨大にあります。地方には風土記として残っている情報も一般的には出にくい情報です。家、一族や神社、寺に代々引き継がれた系統図などの記述や口伝さえ多くあります。国外には魏志倭人伝のほかにも多く文献があります。それらは、情報の横の繋がりは余りありません。またいろいろな文献にすこしずつ関連する素晴らしい情報があります。偽物か判定がついていないもの、まで含めると、さらに膨大です。近年インターネットの発展で公開されたり、また検索で発見される書籍情報や、Web情報も急増しています。それらは、ほかの事実とつないでみて、整合性があれば、かなり信ぴょう性が上がっていきます。意外と複数の書籍で整合する部分があります。しかし不思議なことに記述が古事記、日本書紀とは違って整合しています。違っていても、別な伝承同士で整合する場合が多くあります。また遺跡、遺物の遺伝子DNA分析や炭素元素年代分析も日々進展し発見が発表されています。
このような、情報を地理的に、また正しく修正された時系列に、またその意味的に繋いでみる、という作業はとても重要で、また次の調査研究につながります。繋がれば幸いですし、21世紀は繋げることが可能になりました。また21世紀は、そうれが、より求められる新たな時節になったなと感じます。
私は、以下の書籍情報周辺を年代、背景、意図で繋ぎました。史実を突き止める目的です。しかし、今回は小説ロマンとして読んでいただければ幸いです。
参考資料
これらのなかで、いままでの仮説提案との違いは、よく知られている文献に加えて、(稀有な)半島側情報の契丹北倭記(松重重蔵氏訳)、出雲富家口伝(例:親魏和王の都―伝承の日本史:勝 友彦氏)、出雲富家口伝から詳細にわかる徐福伝説、海部系統図、松野連系統図、薩摩姫一族風土記伝承、肥後河童風土記伝承、それらから連なる天孫降臨の新たな解釈、大山祇神(大山津見:オオヤマツミ)の重要な位置づけ解釈、古代シュメール文明文献 など広範な下記の文献をさらに兵法を考慮しながら繋ぎ合わせている点です。今までのどの歴史仮設よりも広い範囲で最も矛盾が無いと考えています。
・魏志倭人伝 ・論衡 ・論語 ・古事記/日本書紀 ・九州年号に関する書籍 ・契丹北倭記 ・継体天皇の生い立ち諸説 ・「台与」/「臺與」(トヨ)=「豊来入姫」説周辺 ・ウガヤフキアエズ王朝資料 ・徐福伝説 ・豊川豊橋東三河徐福伝来風土記 ・伏見稲荷(京都、豊川)伝承諸説 ・豊国文字伝承 ・宇佐八幡宮伝承 ・国東半島重藤遺跡資料 ・公孫瓚文献 公孫淵文献 ・呉越興亡文献 ・宗像一族と宗像神社 ・蜀孫権文献 ・卑弥呼解説書籍 ・邪馬台国解説書籍 ・卑弥呼と公孫瓚の関係資料 ・三国志を陰で操った倭王卑弥呼 ・神武天皇と半島の関係諸説 ・出雲向家口伝(伝承の日本史:出雲と蘇我王国、出雲と大和のあけぼの、信魏和王の都、出雲王国とヤマト政権) ・葬られた王朝(海原猛)・海部系統図 ・先代旧事本記 ・丹波丹後国宮津天橋立由縁資料 ・丹後国元伊勢籠神社/眞名井神社由縁資料 ・松野連系統図 ・鹿児島姫家伝承 ・出雲風土記 ・出雲熊野神社由縁 ・扶桑国/君子国資料 ・公事本記 ・岐神(クナト神)/歳の神/賽の神研究資料 ・猿田彦研究資料 ・ホツマツタエ(東伝) ・宮下文書 ・富士古文書 ・シュメール文明資料 ・シュメール語比較文献 ・シュメール/ギルガメッシュ叙事詩 ・各種遺跡調査文献 ・吉野ケ里遺跡 ・吉武高木遺跡 ・八女遺跡/博物館 九州歴史博物館 ・磐井の乱経緯諸説 ・養老象鼻古墳遺跡 ・尾張東谷山遺跡 ・饒速日命にかんする文献 ・アマノヒボコ伝承 ・奈良大神神社由来諸説 ・三輪山/大物主に関する伝承 ・宮島周辺巨大石文化伝承 ・スサノオ伝承 ・三内丸山遺跡資料 ・縄文火炎土器資料 ・三国志 ・項羽と劉邦 ・ユダヤ人古代来日説周辺文献 ・日本人とユダヤ人 ・ペトログラフ(古代石文字)研究書籍 ・瀬織津姫/アラハバキ研究 ・DNAゲノム解析資料 ・縄文弥生気候変動資料 ・天文彗星新説文献 ・地殻構造体/地殻変動津波資料 ・縄文海進資料 ・稲作伝来の歴史 ・縄文時代の交易関係資料 ・黒曜石産地とアジア交易分布 ・諸葛孔明/韓士の兵法 ・ユダヤ北朝/南朝文献 ・ローマ帝国のアジア航海交易資料 ・鹿島神宮/香取神社/神栖息栖神社由縁 ・筑波山信仰の歴史 ・大国主/事代主諸説 ・伊豆三嶋大社由来(伊豆=イズモ、三嶋=摂津高槻三島由来説)・伊豆半島の砂鉄資料 ・ヤマトタケル各所伝承 ・熱田神宮由来 ・尾張東谷山磐座/古墳伝承 ・伊勢神宮猿田彦神社倭姫宮由来 ・大宰府由来と石城由来 ・長野安曇野伝承八面大王(八女大王説)文献 ・飛騨王国九州日田伝来説 ・熊野大社/速玉神社/花の窟神社/勝倉神社由来諸説 ・徐福熊野伝来伝承/徐福博物館 ・平安京地名と大分宇佐中津周辺旧地名類似調査文献 ・中国三星堆積遺跡資料 ・古代信仰磐座の考え方文献 ・ヴェトナム銅文明文献 ・バンチェン文明資料 ・古代日本「謎」の時代を解き明かす(長浜浩明)
これらを繋ぐときに、立場が3つあります。
①古事記・日本書紀をかなり正確として全体をつないでいく
②古事記・日本書紀は情報を集約してはいるが、時の政権の都合を考え若干修正されている
③古事記・日本書紀は情報を集約してはいるが、編纂時の500年以上前の出来事については、時の政権の都合(編纂前数十年を含めた時代、政治背景)で、意図をもってかなり歴史改変されている。
私の立場は、③です。膨大な散在する資料に全体整合が無理がないとすれば、それは最も妥当と考えます。繋いでみると③はそのように一番無理がなくなってきます。そう至るまでには、何度も仮説がぐるぐると変わり、この納得できるストーリーに至りました。
例えば武内宿禰という人物を例にすると、『古事記』によると、第八代孝元天皇と紀伊国の日前宮を祀る紀伊国造第六代宇治彦の娘・山下影姫(やましたかげひめ)との間に生まれたと記述があります。しかし、『日本書紀』では、第十二代景行天皇が皇族の屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を紀伊国に派遣した際、命と宇治彦の娘・影姫との間に生まれたと大幅に修正されている。ほかの文献情報と合わせるとこの部分は古事記が正確だと私は判断しています。記述に相違があります。なぜでしょうか? 他文献をつなぐと竹内宿祢は実際は卑弥呼(姫巫女)や(実際の)神武東征に関係している人物なのだと記録されています。そして、実際の神武東征は、文献をつなぐと第九代、第十代天皇頃にありました。日本書紀はこれらに関連する部分を、意図をもって隠すように修正がされています。当初古事記では、隠す意図がなく、史実を記載していました。そしてそれを繕うために、日本書紀では竹内宿禰が創造の人間のように長寿であったように、また繰り返して現れてくるように記述されています。
もう一つの立場は、魏志倭人伝は実録ですが、内容が全て正確とは限らないと考える必要があります。当時の倭からの魏への説明は”いつか魏は敵になるかもしれない”と疑い深く兵法にもとづく対応や説明をしていた、という解釈です。つまり魏志に書いてある倭からの伝聞は最小限で不十分な情報で、なおかつそれがすべて事実とは限らないと、感じます。
全体を通して、私は”兵法の考え方”を古代歴史の組み立てに使用しています。また気候変動や天災からの情報も組み合わせ考察しています。これは視点が新たで、発見も多いと思っています。そして可能な限り、その当時の人々の立場になって考えてみることも心掛けました。
①②③いずれの解釈にしても、国の紀元が紀元前660年と古いという、通説解釈があります。しかし、これは誤りの可能性が高いです。古代ある時期までは九州中心に使われていた半年を一年とする、半島を含む九州文化で記述された、いわゆる九州年号を使って記述されているという説があり、それは正しいと私は推測します。当時日本書紀を記録した関係者は、それを知っていたけれど、唐国にたいし日本の歴史を古く見せたいためそのまま伝説としたようです。古代の天皇になるほど存命時期が100年を超えるなど、ある代以前は現実的でないのに、一部を除き主要な現代記紀解釈はそれを反映させた修正をしていません。それを採用補正すると、書記の古代の部分の記述は、天孫降臨時代を含め例えば実際の神武東征は紀元100年から200年過ぎあたり、また神代1代は紀元前170年あたり、と非常に現実的に解釈できる案に広がっていきます。秦の始皇帝時代の徐福の蓬莱への伝来伝説から邪馬台国の時代へという時期に重なります。これを私は適当と考えます。
一方でそのうえで考えても、史書情報を正確につなぐと、
なんと天孫降臨以前の日本の国の成り立ち起源は、日本書紀が伝承しているより、もっとずっとずっと古いのです。紀元前1000年の中国殷文明と同時期であり、そして、そのもっと古くは、アジア大陸だけでなくさらに雄大な古代の世界航海文明(シュメール文明)が紀元前1500年ころ伝来しつながっている、と見えてきました。長い時間をかけた世界規模の航海がされていた時代があるのです。紀元前に新縄文と呼べる時代があったのです。そしてさらに日本は島国故その古い世界文明が、色濃く今も残っている、世界に稀な状況を維持してきているのです。それは21世紀になってからの直近のDNA遺伝子解析でも見えてきています!
先にまとめると
日本列島の縄文時代(いまから1万6500年前)の人々は、遠くネアンデルタール人とも融合したホモサピエンスの遺伝子痕跡を世界で最も色濃く残す民族の一つであり、極寒シベリアで生き抜く毛皮の防寒服とその裁縫技術を身に着けた独自に進化文明を築いてきた人々の記憶や文化を残してきた。彼らは南下して日本に定住し、そしてその文化は、世界でも早期でかつ珍しい縄文土器や火炎土器につながっていった。
縄文時代紀元前5000年長江領域河姆渡で栽培が始まったインデイカ米は、その1000年後には日本で栽培が始まっていた。
弥生時代の夜明け第1期は、以外に早く紀元前1500年のシュメール人2派と苗族の日本列島到来による融合で始まり、第2期は紀元前1000年頃からの中国の殷、周、呉越の先進文明を日本列島に導いた姫一族(姫氏、忌/紀氏、熊野氏、大山氏の源流)由来の人々の渡来融合に拡がり、第3期は紀元前220年以降の徐福を起点とする秦氏(古代ヘブライ系統民族とも言われる人々との融合でした。渡来した彼らは主に儒家とよばれ、彼らは東へ移動したヘブライ系統民族であり、秦国に滅ぼされた斉国の人々とも言われる)由来の人々の渡来、そして第4期は紀元後の弓月国を経由し渡来した人々へと連なり、彼らは平和で穏やかな世界を願う人々が集っていった。
それら人々が縄を編んでいくように、そして徐々に虹を作るように、独得の日本人の彩が形作られていく。
そして極東の島国であるがゆえに今でも古きシュメール文化を色濃く残して現在に至っていった。
学術的な遺跡調査からも、例えば弥生時代と縄文時代の境は稲作が始まった時期と定義されていますが、近年新しい遺跡の解明や稲作の痕跡がどんどん発見されています。境の時期がもっともっとと古くなり、弥生時代の始まりは従来通説の紀元前300年頃ではなく、紀元前1000年前後の昔に遡ってきています(西暦2000年以降の調査結果)。今回の仮説を裏付けています。
わくわくする世界が広がってきます。より正確な姿が見えてきます。しばらくお付き合いください。
前章 世界の文明の始まり
日本の歴史の前に、世界の文化発祥をまずご紹介します。
今から40000年前 マンモス象などを追った集団狩猟生活を行う石器時代が長く続いていた。酷寒地域では、寒さをしのぐための毛皮衣服を作成するための骨角器による針など精細な道具と裁縫を発明するなどの技術文化が徐々に形成されたと解明されつつある。日本列島北部ではシベリアから南下してきた人々が生活を広げていた。
今から16500年前から12000年前 縄文時代 Jomon Period の始まりとよばれ、石器、土器、狩猟、焼き畑がキーワードとなる文明を身に着け、ある程度の集団、家族で生活をしていた。日本列島は世界でも早期に土器文化が花開いていった。
今から12000年前 寒冷期であり赤道周辺が生活に最も適した地域だった。つまりアフリカとインド半島南部と東南アジアのジャワ・スマトラ当たりだ。大陸棚と呼ばれる浅瀬の海域は陸地だった。その後寒冷期が終わり、急激な温暖化の気候変動に伴い大陸に積もった雪が解け、いわゆる縄文海進で海面が200メートルも上がり、現在の地形が定まってきた。文明は海岸線で発達するのが主であるため、これによりこの時代以前の文化は、海没して遺跡がみえにくく状況把握できなくなってしまった。この津波ともいえる短期の海面上昇は、民族の移動、漂流をもたらし、結果として文化の地理的拡散をもたらした。赤道から緯度の高い地域が生活に適した土地に変わり、人々の移動が起こった。
今から11600年前 トルコ南部のギョベックリ・テペ遺跡で、狩猟採集民が築いたとみられる1万1600年前の神殿跡が見つかった。この発見は、農耕が始まってから宗教が生まれたという定説を覆すことになるかといわれている。さらに階級や食料余剰がなければ神殿建築は不可能で、それらがこの古い時代に成立していたのか、調査解明が待たれる。
今から11050年前 テル・アブ・フレイラ(Tell Abu Hureyra、アラビア語:تل أبو هريرة)には古代のレバント東部・メソポタミア西部に考古遺跡があった。今から11,000年以上前に穀物を栽培した跡が見られ、現在のところ人類最古の農業の例となっている。11,050年前のライムギの耕作・栽培の証拠がこの遺跡から検出された。この時期は、最終氷期が終わり温暖化に向かっていた気候が再び急激な寒冷化を迎えたヤンガードリアスという寒冷期の始まりにあたり、この地域の気候の乾燥化によって野生動物や野生のムギ類が減少し、採集に依存していた人々は食糧確保のために農耕を始めたとされている。
今から11000年前 ロシア、シベリアの端で生まれた文化が発見された。シギルの木の偶像がみつかった。この文明は、ユーラシア大陸の文化発展の中心地である中東と同じくらい進化していた可能性が高く、当時の文化的発展の頂点にいたとも考えられ、シギルの偶像と呼ばれる中石器時代の彫像は、もしかしたらこれまでの世界史をくつがえすような証拠になるのかもしれない。ウラルの狩人や漁師や採集民は中東の農民と同じくらい発展していたこととなる。この像は世界的に認められユーラシア大陸における文化的発展の拠点地は中東だけでなく、ウラルでもあったことを証明することとなった。裁縫による毛皮をまとってマンモスを狩猟していた人たちが長い時間をかけて進化していったのでしょう。
これら事例は、不思議と12000年前の急激な温暖化による海抜が急激に上がった時期に近い。時期が張り付いているといってよい。つまり同様なレベルの文明が12000年以前に芽生えていたが、200メートルに及ぶ海抜の上昇で、水没衰退し、文明の痕跡は12000年の間に風化していった、と仮説を提起できる。12000年以前の遺跡は当時高地で生活していた人々の使用していた風化の緩い石器、土器に限られて遺物が残った。
今から10000年前 縄文海進を生き抜いてきた人々は徐々に狩猟から農耕定住が進んできた。しばらくは寒冷化時期であったため、文明の発展広がりはゆっくりだった。
今から7000年前、つまり
紀元前5000年ころ 陸稲が栽培耕作された。中国の長江下流の河姆渡(かぼと)という地で、今から7000年前の遺跡が発見され、そこから炭化米や稲作に使われていたと思われる道具などが出土した。近年の調査で、河姆渡からは栽培稲だけでなく、栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見され、さらに野生稲から栽培稲へと変っていった痕跡も発見された。以前は7000年前という年代の真偽が問われたこともありましたが、現在、最も信頼できる手法を用いて出土したモミを測定したところ、確かにその時代のものだと証明されている。稲作の起源は長江流域にあるのではといわれている。(稲のたどってきた道 :静岡大学佐藤 洋一郎氏)
温帯湿地稲作は、ずっと後で紀元前2-3000年ころと推定される。古代東南アジア苗族が広めたといわれる。
紀元前4000年ころ 東南アジア タイ北部 バンチェンで世界最古の青銅器文明が興ったことが近年発見された。驚くべき遺跡で解明が進んでいる。上記中国の長江下流の河姆渡(かぼと)での陸稲の栽培文化と融合し、成都平原の広漢市で発見された三星堆遺跡と金沙遺跡へ広がっている。遺跡の情報を時系列でつなぐと、青銅器文明は東南アジアからオリエントへ広がったことになる。この点はまだ情報が少なく解明が待たれる。
1000年ほどさかのぼるが、
紀元前5000年ころ メソポタミアでは、小麦の栽培耕作が始まった。
紀元前5000年ころ メソポタミア南部にウバイド文明があらわれた。小麦の栽培耕作が広まり、灌漑農業で文明を築き上げていった。
紀元前3800年ころ からウバイド文明の周辺に高度なシュメール文明が現れた。楔文字や粘土板による記録、天文学や現代にいたる基本的技術が発明され、文化は周辺に拡大していった。国が形成され、広がっていくにつれ、国同士の争いも始まった。気候変動があり、国家の不安定さにつながっていた。
紀元前3500年ころ 古代エジプト文明 スフィンクスはこの頃或いはこれ以前に建設されている。雨で溶けた形成があることから、多雨、多湿な時代に建設された。ピラミッド建設は紀元前2500年頃が定説となっている。青銅器具を使ったと考えられている。
紀元前3300年 メソポタミアで青銅器時代が始まった。
紀元前2600年 シュメール国家周辺に、鉄器をあつかうヒッタイト文明が起きた。交易交流が文化を発展させていった。
これら国々を巻き込みながら、文明が広がり変遷をしていった。チグリス、ユーフラテス、メソポタミア、インダス、さらに東のアジアと広がっていた。
紀元前2360年頃 世界4大文明が同時に衰退している。天文学、数学の進歩から彗星の隕石落下の影響での世界的津波、天候不順がこの頃あったのではないかと言われている。この後彗星の360年周期後つまり紀元前2000年頃に再度天地異変が発生した。この彗星は巨大な赤い火玉となって分解落下した。一部はその後太陽近傍軌道に吸い込まれて計算上アイソン彗星がその名残といわれ始めた。天候不順は国家間の争いを招き、一方で生きていくための文化の世界的拡散が加速した。
紀元前2000年 シュメール文明は国家間の争いにより国名は消滅し、アッカド文明へと変わった。しかし民族や文明は引き継がれた。したがって文明の名前は変わったが、シュメール文明が引き継がれ発展した。これらのなかに後にユダヤ民族と呼ばれる人々が、奴隷階層として存在移動した。(奴隷とは、職業的奴隷で、現在イメージする奴隷とは違うといわれている)
アッカド文明と、ヒッタイト文明の人々は、融合し鉄器と航海術、農耕技術をセットし交易で組み合わせで発展し西方や東方インダスへとも広がった。広がるに伴い、民族、国があらそい存亡を繰り返していた。争わざるを得ない原因の一つに、気候変動、天候不順による食料危機があげられる。アッカド、ヒッタイト文明や民族はその後バビロニア、古代ヘブライ(ユダヤ)、メソポタミア、インダスへ継承されていく。
拡大していく中でも中心といえる、鉄器、航海術、農耕技術をセットにして交易武器としたアッカド・インダス文明は、西へ東へ発展し、さらに広範な遠方東方アジア、中国東岸まで徐々に及んだといわれている。下記は中国南部で特異な文化を形成した遺跡が新たに発見されている事例として示す。インダスから東方へ発展的にトラビダ語、民族とも表現され広がった。
アジア大陸の東岸は、メソポタミア、インダスから見てはるか彼方であったが、1000年単位の時間の中での移動、交流、交易の中で文明の拡散が進んでいった。
紀元前5000年頃 – 紀元前3000年頃の東アジア事例へと少し戻って説明を移す
陸稲がこの時期栽培耕作が始まった。中国の長江下流の河姆渡(かぼと)という地で、今から7000年前の遺跡が発見され、そこから炭化米や稲作に使われていたと思われる道具などが出土した。
紀元前4000年ころ 東南アジア タイ北部 バンチェンで世界最古の青銅器文明が興ったことが近年発見された。上記中国の長江下流の河姆渡(かぼと)での陸稲の栽培文化と融合し、成都平原の広漢市で発見された三星堆遺跡と金沙遺跡へ広がっている。遺跡の情報を時系列でつなぐと、青銅器文明は東南アジアからオリエントへ広がったことになる。この点はまだ情報が少なく解明が待たれる。
事例:多くの歴史の謎を解明 三星堆遺跡(中国長江上流四川省)
中国古蜀文明シンポジウムで、四川省巴蜀文化研究センターは、三星堆遺跡と金沙遺跡の発見と研究により、古文書や伝説の中で伝えられていた多くの謎が解明された、との考えを明らかにした。
成都平原の広漢市で発見された三星堆遺跡と金沙遺跡によって、3000年近くの間消失していた古代の輝かしい文明はよみがえった。この発見は中国の古文書に記されている神秘な古蜀国の存在を実証した。
三星堆遺跡および金沙遺跡と東南アジアで発見された紀元前4000年のバンチェン青銅器時代の遺跡との緊密な文化関係は、古文書に記された古蜀人が中国南部の雲南に北へ移動したとの歴史や、蜀王に率いられた蜀人の大軍が南部に遠征しベトナム北部の高原に建国し、国が滅びてから東南アジアの島に逃れたとの歴史を実証するものでもある。
三星堆遺跡は地層から7000年から5000年前の遺跡とも言われ、同地域では12000年前から7000年前とも推定される縄文人骨も発見される肥沃で文化の継続的な地域だ。
この紀元前5000年ころは 陸稲が栽培耕作された。中国の長江下流の河姆渡(かぼと)という地で、今から7000年前の遺跡が発見され、そこから炭化米や稲作に使われていたと思われる道具などが出土した。近年の調査で、河姆渡からは栽培稲だけでなく、栽培稲の先祖に当る野生稲の痕跡が発見され、さらに野生稲から栽培稲へと変っていった痕跡も発見された時代だ。
上記中国の長江下流の河姆渡(かぼと)や、やこの長江上流成都平原の広漢市あたりが、温暖で文明が進化していった。
紀元前2500年頃 – 紀元前1700年頃の東アジア事例
温帯湿地稲作は、紀元前2-3000年ころと推定される。古代東南アジア苗族が広めたといわれる。
事例:宝墩文化
中国・長江上流の四川省成都平原で栄えた新石器時代の文化。四川省で発見された最古級の文化。
この文化の標式遺跡であり面積60万平方メートルと最大の遺跡でもある宝墩遺跡(龍馬古城)は成都市新津県龍馬郷宝墩村で発見された。その他の遺跡には都江堰市の芒城遺跡、崇州市の双河遺跡と紫竹遺跡、郫県の古城遺跡、温江区の魚鳧遺跡といった大規模な囲壁集落遺跡があり、岷江扇状地・成都平原(成都市域)に集中する。
紀元前2000年頃 – 紀元前1000年頃の東アジア事例
夏王朝(か:紀元前1900年頃 – 紀元前1600年頃)は、史書に記された中国最古の王朝。 夏后ともいう。 夏・殷・周を三代という。『 史記』『竹書紀年』などの史書には、初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続き殷に滅ぼされたと記録されている。
このころ前後して九夷とよばれる九つの部族(異国人)が中国史に姿を現す。
彼らは鉄器、航海術、農耕技術をセットにして交易を拡大してきたシュメール・アッカド・インダス文明人であり、東へは広範な遠方東方アジア、中国東岸まで徐々に及んだ。インダスからシルクロードを経由した陸上での東方移動も広がっていた結果だ。インダスから東方へは発展的にトラビダ語、民族とも表現された。アジア東方の農耕では温帯水稲技術を苗族が発展させていた。シュメール人と苗族が組んだ鉄器、稲作、航海術がセットで広がっていった。苗族自体もシュメールアッカド人を源流とするのではないかとの説も現れている。アジア大陸の東岸は、メソポタミア、インダスから見てはるか彼方だったが、1000年単位の時間の中での移動、交流、交易の中で文明の拡散が進んでいった。
日本古代史
本章 日本列島の文明と人の始まり
今から35000年前から16500年前のおよそ2万年を後期旧石器時代と言い、列島全国で多数の遺跡が確認されている。
今から24000年前 鹿児島耳取遺跡で石器時代遺跡が見つかり、定住の様子が見られる。
今から16500年前 日本最古(世界最古)の縄文土器文化が東北青森で発掘された。縄模様の土器は世界でも初めて日本の遺跡で発見され、縄文時代 Jomon Period が定義された。12000年以前の縄文土器文化は、日本列島全体で広く確認されている。北は樺太を経由して酷寒の中毛皮をまとった人々がマンモスを追いかけながら移動して来た。朝鮮半島も同様だ。日本列島の南側は漂着した人々が上陸した。アジア太平洋沿岸は津波や台風、洪水が多く海に投げ出されたり、避難した人々のなかで非常に小さい確率ではあるが、漂流を繰り返し、数千年という時間をかけて黒潮に導かれて南西諸島を経由して日本列島まで漂着した。この状況から日本列島の縄文人は樺太北海道を経由して南下した極寒を生き抜いて毛皮裁縫技術を身に着け、独自に進化した人々の割合が多い。これら列島縄文人のさらに祖先はDNA分析の結果北方でネアンデルタール人とも交配したホモサピエンスの痕跡が日本に特に色濃く残っていることがわかってきた。
今から12000年前 気候変動 縄文海進で海面が200メートルも上がり、現在の地形が定まってきた。日本列島は樺太、朝鮮半島とこの時離れて、島となった。温暖化により、日本列島は以前より住みやすくなった。当時の縄文海進は数週間でも50メートルにも及ぶ津波ともいえる激変であった。アジア大陸からの漂着民もこの時期が多いと推定される。これらの人々による日本列島の文明のきざしは、この時期から速度をあげていった。
縄文海進を生き抜いてきた人々は人口は少ないものの、着実に縄文文化を築いていた。日本で発掘された縄目模様の土器は、ユニークで世界に通じる Jomon Period を作り上げた。
今から9000年前 紀元前7000年頃、愛知県でも定住の模様を示す縄文集落遺跡が見つかっている。
今から7500年前 紀元前5500年頃 千葉県市川市の雷下遺跡から約7500年前の丸木舟が出土している。船を使った漁労が行われていた。
今から7300年前 紀元前5300年頃 鹿児島喜界島巨大海底火山が爆発し、西日本を覆い、関東ローム層まで火山灰の堆積跡が発掘されている。
喜界島巨大噴火による、天候不順により西日本の縄文文化は大打撃を受け衰退した。つまり朝鮮半島を経由したり、南西諸島を経由して日本列島に移動した縄文人は衰退した。その影響を受けにくい関東、北陸、東北、青森で縄文文化が熟成していった。ここから考えると日本列島の縄文人は樺太北海道を経由して南下した極寒を生き抜いて毛皮裁縫技術を身に着け、独自に進化した人々の割合が多い。これら列島縄文人のさらに祖先はDNA分析の結果北方でネアンデルタール人とも交配したホモサピエンスの痕跡が色濃く残っている。
紀元前4000年頃 縄文時代の日本列島地層から、稲(陸稲インデイカ米)のプラントオパールが続々と検出されるようになった。プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05−o程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができる。最も古いプラントオパールというと、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中から、6000年前のものが検出された。1990年代に入って、ようやく縄文時代にも陸稲作(インデイカ米)があったということが考古学界でも認められるようになった。
大陸での最も古いプラントオパールは7000年中国の長江下流の河姆渡(かぼと)という地で、遺物が発掘され陸稲発祥地と言われるようになった。すると黒潮に乗った人類の漂流で大陸から1000年をかけて日本列島に至ったのだろうか。種子が漂着したか、または鳥が運んだ可能性もある。あるいは日本列島で採掘できる良質な黒曜石やヒスイが求められこの時代でさえ大陸と交易があったのだろうか?
同じく紀元前4000年頃 青森市(津軽湾南)に縄文時代前期中頃から中期末(紀元前3900年~紀元前2200年頃)の、我が国を代表する大規模な集落遺跡群三内丸山遺跡がある。世界に誇る縄文火炎土器文化や精巧な骨角器を作り上げる文化が形成されていた。火炎土器は東北で算出される石油やタールの自然発火を象徴して形作られたという説が出ている。精巧な骨格器道具の発展は、寒い雪原をマンモスを追いかけて生き抜いてきた縄文人の毛皮作成の精細裁縫技術進化から発展したと見られる。
ここでの人々は紀元前2000年には栗栽培がされていたとの栗遺物からの遺伝子解明がされてきた。なぜそういう説が成り立ったかというと、普通、野生植物の集団というのは、DNAの並びはバラバラなのだが三内丸山遺跡のクリの場合は、見事な程にDNAパターンが揃っていた。これは意図的に選抜して植林したためとしか思えず、そうなるとクリを育てるという高度なノウハウが、4000年以上も前からあったと推測できる。
ヒスイや遠隔地産の黒曜石、アスファルトなどの交易品も多数出土し、船による航海、徒歩による近隣交流での物交換のさらに近隣への広がりの物交換と、気の遠くなるような時間をかけての物々交換が広く日本に波及していた。縄文火炎土器は北陸、上越、関東、東北で広くみられる。冬生き抜くには、冬川へ遡上するサケ漁のできる北部日本地域が意外と適していたようだ。また津軽湾は太平洋側津波の影響をうけにくい。
紀元前2360年頃 世界情勢で触れたアイソン彗星による津波、天候不順があったと考えられる。一説には太平洋日本近海に落下したため日本列島北海道南部と東北太平洋側が、彗星落下物と津波で甚大な被害を受けた。一戸、八戸の地名はその津波の到達した場所と回数を名残として残しているとの仮設が提唱されている。もしそうであれば、この時代の記憶を伝承させるなんらかの言葉があったのではないかと予想される。
紀元前2000年以降 世界的天候不順が冒険的航海を加速した。生存競争だ。航海術を駆使し、製鉄のため鉄鉱山を探しながら東へ遠征していくアッカド・ヒッタイト・インダス人は、砂鉄分の多い赤い山、赤い砂浜を船から探しながら航海し、数百年かけてアジア東、中国東岸まで及んだ。日本は東方端の小さな島だが、太平洋地溝帯の上にあり、世界有数な鉱物資源の宝庫であった。例えば砂鉄は今でも、カナダ、オーストラリアと並んで世界の3大産地であり、ヒスイは東洋で最大。黒曜石は良質でアジアまで縄文時代交易された痕跡が残っている。黒潮に乗って朝鮮半島経由で、安全を確認しながら南下し九州の赤山や赤い砂浜を探した船が少ないにしてもあった、と思われる。また赤道アジアから北へは大陸沿いのルートと分かれて台湾、沖縄南西諸島へも到達定着したシュメール航海人がいた。DNA分析から推測される。
大陸から九州へのシュメール文明の流入 -新縄文時代ー
紀元前1500年 九州阿蘇山脈系統の国東半島重藤海岸で良質で大量の砂鉄を発見したシュメール・アッカド人がいた。彼らには、中国東岸から朝鮮半島あたりの開拓仲間も居り、朝鮮半島付け根の楽浪を貿易拠点として、国東半島の鉄と、中国の貿易物を交換、交易を広げた。倭の国東半島の産鉄は第1級の極秘事項と扱われ、奪われないよう細心の注意が払われた。朝鮮半島のどこかで採取しているように誤魔化し見せかけていただろう。交易拠点も遠い半島最北端楽浪が選ばれた。これらの人々が殷文化の原型となった。殷文化は、その後よく検証すると、人民の営みの町跡があまり見つかっていないといわれる、交易拠点の遺跡だけが残って殷文明といわれたのではないかと仮説も出ている。(契丹北倭記)
朝鮮半島における鉄器遺跡の出現は、紀元前 3世紀である。出現期の様相は、農工具を主体とするものであり、製作技術的には燕に由来する鋳造品が多くを占める。おそらく全て燕の領域からの搬入品で あり、この段階の朝鮮半島では、研磨による再加工を除き、鉄器生産が行われていた証拠は確認されていない。
*2003年5月に国立歴史民俗博物館(以下、歴博)の研究チームが発表した弥生時代の開始年代は、これまでの紀元前5世紀を500年もさかのぼる紀元前10世紀であった。この年代観に従うならば最古の鉄器と考えられていた曲り田遺跡出土の鉄も紀元前10世紀の鉄ということになり、中国と同じくらい古い鉄が日本に存在したことになるなど、東アジアの鉄の歴史を考える上で,大きな問題を投げかけることとなった。鉄器酸化遺物は年代測定ができず、地層や遺跡年代から推測しているためだ。(AMS-炭素14年代測定法が明らかにした日本の鉄の歴史 :藤尾慎一郎 抜粋)
シュメールアッカド人というのは、その世界航海が始まった紀元前2500年から1000年たっている当時では、アジアに定着し融合していった民族であった表現のほうがいいかもしれない。ただ言葉、文字はシュメール文明を源流にしていることは間違いない。厳密にはシュメールからインダスに広がったトラビダ語、民族も含む。最近のDNA、ゲノムの解明で3500年前つまり紀元前1500年この頃のアジア人は現在の世界のすべての人のゲノムに影響をしている(交配的に関係している)という最新説まであって、それはアジア文明から世界へ広まったのか、シュメールから世界へ広く広まった一派(仲間)であると言っているのか、解明が待たれます。
大陸から北海道、青森へのシュメール文明の流入
もう一方、この少し後の時期に、インダスへ広がったアッカド文明の一派が民族や国が拡大しお互い争っている中、これら極東日本の温暖な気候と争いのない新天地である情報を聞きつけ、争い迫害を避け一族で日本への移住の旅を決断した民族がいた。宗教的に争いを好まないクナト王(岐神)をあがめる一派だった。
紀元前1500年過ぎ 彼らクナト一族は、そのころ中国シルクロード経由の東方交易も紀元前2000年の夏王朝時代から始まっていたので、その商人をガイドに頼み、寒いが争いのない安全な北のルートを通り、必死で寒いアムール川へ到達し、筏で川を下り、樺太、北海道へと移動した。彼らは蕎麦(ソバ)栽培技術を持ち日本列島に持ち込んだ。栽培が適当な青森まで南下、そのころすでに、日本で固有の縄文文化を築いていた青森県三内丸山遺跡周辺に至り、その人々と共存定住した。途上の北海道では既住のアイヌ民族とも融合していった。北海道は意外と知られていないが蕎麦の全国一の産地である。冬の間はサケ漁や日本で豊富な温泉がかれらを生存させた。そして徐々に太平洋側、日本海側へと南下していった。(出雲富家口伝)
当時 世界の文明は、主にシュメールを原型とする、アッカド文明、インダス文明からの広がったものであり、ほぼ同時期に日本へ到達した2派は、基本 シュメール言葉、文字であった。そのため、その後の民族交流融合はある程度スムーズであったのではないかと推察する。後述するように日本語はシュメール言葉、文字と非常に共通点が多く残っていることが、近年明らかになってきている。また遺伝子DNA分析が急進展しているが、日本が東アジアには残っていないがチベットだけには残る独特のYAP因子を持っていることが不思議がられている。この因子はアイヌに最も濃いが沖縄でも観測される。同じDNAを持つシュメール人が2派で南と北から到達したと仮定しないと、説明が難しい。
参考までに、ユダヤ民族の消えた第10士族が日本に移動移住していたという説もある。しかしユダヤ民族もシュメール出身でアッカドに引き継がれ、その後 ユダヤ民族と名乗った経緯であるので、ユダヤ民族の痕跡が日本にあるというのは、シュメール文明の痕跡がのこっていると解釈できる。消えたユダヤ民族が日本に来たという証拠ではない、と考えられる。ユダヤ民族が消えたとされる時期は紀元前800年である。それは、これらシュメール人の日本列島到来の紀元前1500年頃よりかなり遅い時期だ。つまり時代を離れて段階的に移動があったとは言える。参考だが、ユダヤ民族はシルクロードを東に向かい、キルギス国などを経由し古代弓月国やさらに斉国を形作る元となる紀元前700年の頃儒教集団になったという説がある。後述するように、その後儒教集団から有名な孔子が紀元前550年頃生まれ活躍し、その子孫に伝説の徐福が居り、紀元前218年日本に移動する、そして秦国ユダヤ関係者(墨家とも呼ばれる)を始皇帝が亡くなったのちの戦乱の秦国、その後の漢国から日本列島倭に居住する手助けをした。さらに同じ系統である弓月国からの紀元500年前後の半島からの大挙した移住も含め、その意味ではユダヤ民族(古代ヘブライ民族)が長い年月をかけて日本にも移動したという意味にはなる。
日本に色濃く残るシュメール語の痕跡
紀元前1500年のシュメール・アッカド・インダス民族の話に戻すと、シュメール語では”火を噴く山”は ”アソ” と呼ぶ、国東半島に到達したシュメール人たちは阿蘇山を初めて見てそう名付けたようだ。ちなみに、浅間山アサマはシュメール語で”アソ・マ”で、それは”アソのような山” という意味になる。九州阿蘇周辺から到来が始まって、シュメールの人々は徐々に東に向かった。富士山のふもと富士市に浅間神社があるのも、そうであればうなづける。西から航海してくると富士山を見たとき、阿蘇のような山(アソ・マ)と最初に感じ命名したに違いない。大昔は富士山をアソ・マと呼んでいた時期があるかもしれない。そして、その名残で富士宮に浅間神社が建立された。この仮説をとると、世界中の火山がアソになってしまうが、そうだったかもしれない。富士山にみられるように、のちの歴史で民族移動や戦争や文化の変遷があると文化や言葉が上書きされてしまう。インダスもシュメール文字の痕跡は上書きされて消えた、といわれる。
さらに参考であるが、最近特に東北弁、島根弁、京都弁はシュメール言葉と非常に似ていると指摘されはじめている。さらに広げると、万葉集の和歌はシュメール語で解釈しても意味が通るとの指摘が起きている。
例へば、”鉄、金属” はシュメール語で ”カネ” と表現する。”カチカチ”は”製鉄を発明したヒッタイト民族”を示す。また ”食べる” ことは ”クー”という。”猛烈な火”は”タタラ”という。”囲め”は”カゴー”、”取り出す、取り外す”は”トリー”、”鶴”は”ツー”と表現する。
シュメール人は自分たちの国を「キエンギ」と呼び「キエンギ」というのは、「葦(あし)の主の地」という意味となる。日本は、「豊葦原中国(とよつあしはらのなかつくに)」と称しており、豊かな葦の原の国という意味であり、シュメール語表記の「キエンギ(国)」の意味と日本の古来の国名は意味が同じになっている。なぜ葦を重要視するかというと、米作に関係すると普通は考えるが、実は葦の根に河川鉄の堆積した渇鉄鋼が数万年の経緯を経て堆積する重要な鉄産出地を表すからだ。
スメ(皇)、スメラ(天皇)とは古代バビロニア語のスメル(Sumer)と同語で、このスメとは神の意で、ラテン語のスメ(Summae)も至上至高の意で同系語である。また、スメラギとはスメル、アグ(AK)の複称であり、ミコト(尊、命)、ミカド(天皇)の言語はミグト(Migut)の転訛で“天降る開拓者”すなわち神という。(出典:三島敦雄氏『天孫人種六千年史の研究』)
これらは厳密にはシュメール語または、その発展であるトラビダ語を含む。古代ヘブライ語も同系統で含まれる。カタカナ文字形態自体が、古代ヘブライ語とのかなりの共通性が指摘されている。また”神輿(ミコシ)”は”ミグシ”、”祇園(ギオン)”は”シオン”、”エッサ”は”持ち上げろ”、”書く”は”カク”、”取る”は”トル”、”住む”は”スム”、”滅ぶ”は”ホレブ”、”祓う”は”ハラー”、”拍手”は”ハケシュ”、”寒い”は”コオル”、”勝利”は”ヨシュア(よっしゃ)”、”話す”は”ダベル”、”砂鉄をすくう”は”ユスグ”、”童”は”ワラッベン”、 ”サムライ(侍)”は”シャムライ(守る者)”、 ”トリイ(鳥居)”は”トリイ(門)”、”困る”は””コマル”、”座る”は”スワル”、”憎む”は”ニクム”、”あなた”は”アンタ”、”ミカド(帝)”は”ミガドル(高貴なお方)”、”ミコト(尊)”は”マクト(王、王国)”、”ネギ(神職)”は”ナギット(長、司)”、”ミササギ(陵、墳墓)”は”ムトウサガ(死者を閉ざす)”、”ミソギ(禊ぎ)”は”ミソグ(分別・性別)”、”ヌシ(主)”は”ヌシ(長)”、”ヤリ(槍)”は”ヤリ(射る)”、”イム(忌む)”は”イム(ひどい)”、”ダメ(駄目)”は”タメ(ダメ・汚れている)” など驚くべき偶然とは思えない一致が事例だ。日本は東方島国ゆえ、民族移動が限られ、言葉、文化の上書き消失が世界的に稀にみるほどすくなく、変化がゆっくりだった。 (出典:坂井洋一著『日本の始まりはシュメール』)
紀元200年頃を記述する魏志倭人伝に、九州倭人の一般人”下戸”のうなずく言葉の表現を”噫(アイ)”と記録していて、これは中国語ではないと伝えている。現代の”ハイ”に近く、現代のひらがな音読みにちかい言葉が、当時すでに古くから一般に使われていた様子が裏付けられる。
日本に色濃く残るシュメール文化の痕跡
国東半島に拠点を築いたシュメール・アッカド人は、熱帯アジアインデイカ米を携え、まず焼き畑農業を広めていった。この焼き畑は、それ以前縄文時代大陸より伝来し小規模に行われていたが、この時期焼き畑とインデイカ米栽培はかなりの速さで日本列島東方へ伝搬していったと思える。広がるルートで考えられるのは、鉱山をも探しながらであり、四国構造線に沿って、吉野川を東に進出していった(香川(別子銅山)、徳島(水銀))。その先は大和(河内湖の葦に蓄積した湖沼鉄)、飛鳥奈良湖/三輪山(葦に蓄積した湖沼鉄)、宇陀(水銀)、伊勢、豊橋(鉄鉱石)、浜名湖(葦に蓄積した湖沼鉄)、ここから中央構造線で北上、諏訪湖(湖沼鉄)に向かうルートであろう。四国徳島剣山にユダヤの痕跡や伝承が語られたり、伊勢神宮にユダヤと同様な図形がある、神社の鳥居がユダヤ文化と類似、諏訪湖の儀式はユダヤ祭祈そっくり、などの指摘は、ユダヤというより、その源流のシュメール文化の痕跡と言ったほうが適当だろう。その中央構造線ルート上にある四国香川のうどん文化、奈良三輪そうめんは小麦文化であり、シュメール文化を彷彿させる。構造線は伊勢、豊橋、浜名湖を経て、諏訪を経由して最後は茨城鹿島へ向かっている。諏訪神社のご神体として祀られる”守屋山”の”モリヤ”はソロモン王が神殿を建てたエルサレムのシオン(聖地)がモリヤ山である。御柱祭では木に聖霊(神)が宿り、柱(ハシラ)を神と崇める祭りだが、古代ヘブライでは木に宿る神”アシラ神”を祀る。また九州国東半島に現存するペトログラフ(石に書かれた古代文字)をシュメール語で解読したところ「そこを焼いて、良き地を掘れ、(そうすれば)霜が溶けるであろう」と記載されていたと発表されている。また有名な奈良の大文字焼きはこれら野焼きの名残だろう。
温帯湿地稲作の大陸苗族からの伝来
この紀元前1500年の出来事には中国南方 苗族もこのシュメール・アッカド人の鉄、航海交易と組み参加し、温暖な有明海沿岸で温帯湿地稲作をも広めた。大陸の温帯湿地稲作は紀元前3000-2000年頃長江下流域以南で苗族により始まった。これが日本への温帯稲作伝承のはじめとなった。稲作で食料を確保しながら鉄を製錬していった。温帯湿地稲作は門外不出の戦略機密技術でもあり、日本列島東方への伝搬普及はインデイカ米と比べてゆっくりと伝搬していった。交易の対価として慎重に広がっていった。そのため稲作は交易の盛んな日本海側で東方へより広まっていった。これは紀元前1500年頃からその後となる。日本での水稲稲作の始まりは、通説では紀元前300年程度であると永くいわれてきたが、少し前から紀元前600年から紀元前900年さらに下記のようにそれより前の紀元前1000年と修正されてきた。
*2003年5月に国立歴史民俗博物館(以下,歴博)の研究チームが発表した弥生時代の開始年代は、これまでの紀元前5世紀を500年もさかのぼる紀元前10世紀であった。この年代観に従うならば最古の鉄器と考えられていた曲り田遺跡出土の鉄も紀元前10世紀の鉄ということになり、中国と同じくらい古い鉄が日本に存在したことになるなど、東アジアの鉄の歴史を考える上で,大きな問題を投げかけることとなった。(AMS-炭素14年代測定法が明らかにした日本の鉄の歴史 :藤尾慎一郎 抜粋)
*中国から日本へ稲作(水稲)が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」に関して日本の各所に点在するRM1-b遺伝子を調べると中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類だった。(稲のたどってきた道 :静岡大学佐藤 洋一郎氏)
つまり、稲作は大陸南部から直接日本列島へ伝来した、ということだ。苗族とシュメール人の組んだ交易から伝来した、という今回の説を裏付けている。
水稲栽培では中国東北部では紀元前1500年頃広まってきたという説も広がっている。半島より温暖な稲作に適した九州は、今までの通説よりさらに早い時期の可能性が強まっていて今回の仮説を裏付ける方向だ。
日本列島での2派のシュメール文明の出会い
国東半島へ到達したシュメール人は航海が得意で、その後 太平洋黒潮に乗り、茨城、千葉の霞ヶ浦鹿島まで到達し、霞ケ浦の筑波山系砂鉄を見つけ、一部の人が定住した。ここで青森から太平洋側の親潮、あるいは久慈川、那賀川経由で南下し常陸文化の原型を形成してきたクナト王の一派と合流したのではないかと推察される。これは紀元前1500年からそう遠くない時期であっただろう。鹿島が神宮として古い由緒を持ち、古い鉄剣が奉納されているのは、この経緯による。
鹿島神宮が全国的には有名だが、鹿島神宮、香取神社、神栖にある息栖神社が鹿島トライアングルと呼ばれる。息栖神社が霞ヶ浦河川のすぐほとりで、最初の上陸地点の名残と伝聞されている。国東半島、有明海に最初渡来したシュメール・アッカド・苗人は有明では稲作で鳥栖、八女周辺から広がっている。息栖神社は鳥栖周辺から来た人々が名づけたように思う。始めは鳥栖神社となずけたが、その後歴史のどこかで、当てはめた漢字を誤って息栖と転記したのではないか。そう思えるほど似ている。そのことが、過去を匂わせている。
鹿島、霞ケ浦から見える霊峰筑波山は、頂上に縄文人の交流の場と礼拝の場の大規模遺跡が見受けられ古くから歴史がある信仰の山だ。また霞ヶ浦の砂鉄はかつて火山だった筑波山系から流れ出て堆積している。筑波山は、かなり古くの伝承で”二神山”と呼ばれた。古くからの縄文人とは、これら国東半島から航海してきたシュメール渡来人と、青森から徐々に南下してきたシュメール渡来人の2派であり、また彼らと融合し取り持ったそれ以前から居住生活していた縄文人でもあり、彼らは、交流にあつまっていた。つまり2派の神を祀っていたので二神山と呼んだと推測される。古代信仰では、古代人は巨石に神秘的霊的感覚を持っていた。山の頂上の巨石には磐座とよばれる神との交流、啓示を受ける場所が残っている。筑波山も同様である。これはシュメールから延々と続いた信仰だ。青森から南下したシュメール人(クナト族)は久慈川、那賀川を下りながら東北に常陸古代文明エリアを形成しながら鹿島にたどり着き合流した。鹿島、筑波へ到達した両方のシュメール人は、利根川を上流に遡上りながら、鉱物を探し浅間山(シュメール語でアソ、マ:阿蘇(アソ)のような山)へと至り命名した。
参考だが、この二神の考えを発展させると、東北には二上山地があり、”フタカミ”という地名が多い、また奈良葛城にも二上山があることに気づく。今後解析してみたい。
国東半島へ到達したシュメール人は、日本海側も、赤鉄山、砂鉄を探して当然航海したのではないかと推察される。その後一大鉄産地となった出雲は、海岸砂鉄ではなく、河川の良質砂鉄であり、これらが重宝されたのは、ふいご高精度高温製鉄が技術的に可能になった紀元前200年以降であったため、紀元前1000年以前の当時としては出雲はあまり関心がない土地であったのではないだろうか? そのかわり、隠岐の黒曜石、越のヒスイ、越のしっくいタール、下呂、麦草峠の黒曜石は重要な交易物であったと推察される。交易の相手は日本縄文人と融合したシュメール起源とするクナト一族だ。だから言葉も通じる。国東シュメール人は最初驚いたことだろう。能登の漆もかなり早期から技術が確立されていたという説がある。そうであれば、これも中国大陸との重要な交易物の一つである。交易の交換条件は稲作技術だ。太平洋側よりも日本海に沿って早く稲作が東に広がった理由は、越のヒスイ、能登の漆器、佐渡を含む黒曜石が太平洋側と比べて豊富だったからだと推測される。また海流も太平洋黒潮よりも安定していた。稲作は交易の対価に限定され、日本海側にまずゆっくり広がった。ヒスイ、良質な黒曜石は東洋一の産地である。これらも紀元前1500年からそう遠くない時期からであろう。
中章 古代国家のはじまり
歴史に残る倭(ワ)と豊国(東表国:トヒョクニ)
紀元前1100年 朝鮮半島と国東半島を拠点で行き来していた人たちが、温暖で国東半島に近い大分宇佐を拠点として、朝鮮半島南部から遠賀川領域、稲作の豊かな有明海沿岸を含め、宇佐、国東、日田、鳥栖、八女を囲む”東表国”を建国した。日本で初の本格国家建設が行われた。一方国東半島で砂鉄を発見し、焼き畑農業を進めていた当初の民族の一部は、別府、国東半島に残ったままの人たちも居た模様だ。両者合わせてウガヤフキアエズ王朝74代という。(契丹北倭記)
この時代の朝鮮半島北部は、混乱の殷末期であり、箕子朝鮮の始まり時期だった。
朝鮮半島において実質的最初の国家は箕子朝鮮である。箕子朝鮮が興った明確な時期は解らないが、前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始めたと言われている。『史記』によれば、始祖の箕子は、中国の殷王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また「犯禁八条」を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。これらの人々が東表国建国に絡んでいたのではないか。時期が符合する。
九州に多く残る不思議な”豊”の着く地名
この東表国は ”トヒョークニ”と呼び、のちには ”豊国:トヨクニ”と違う漢字があてはめられ現在でも豊前、豊後などの表現で残っている。ウサギを信仰、つまり月のウサギであり太陽ではなく月を信仰する部族である。月齢から農作に必要な情報を予測する文明でもあり、シュメール文明が同様であった。”宇佐”は”ウサギ”から由来する。後世に月読みの尊 と称される神の系統は、ここ九州東表国宇佐が源である。卑弥呼(姫巫女)もこの国の出身なのだ。また神武東征以降に東方へ移住拡大していくことから、豊の着く地名が全国各地に多い。
北倭と南倭
東表国は、九州北部中部と朝鮮半島をまたぐ国だった。のちに南倭、北倭と呼ばれるようにもなる。ここで文化を営む人々を倭人と呼んだ。北倭は大陸との交易拠点として重要だった。この当時関門海峡は現在のように船の航行ができたと推察される。その後紀元前800年頃は海抜が現在より4m低くなってしまった。参考に紀元前後の邪馬台国時代には関門海峡のある山口県は長門と呼ばれず、穴門、洞門(あなと)と呼ばれて洞窟があるだけで船の通行はできなかったと記録がある。温暖化の海面変動による縄文海進で古代時期は時期により、航行の可否変動がみられる重要なキーポイントで、調査してもいつどうであったか、情報が少ない。より解明されることを期待する。
紀元前1000年に大陸歴史書に現れる倭人
紀元前1000年頃 殷の書物に”倭人から香草の朝献があった”と明確な記述があり、初めて中国の書物に倭人が現れる。北倭と推定される。香草は占いに使用される。以下原文だ。
論衡 恢国篇第五八
成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯
成王の時、越裳(えっしょう)は雉(キジ)を献じ、倭人は暢草を貢ず。
成王(せいおう):周朝の第2代王・在位期間(前1021年 – 前1002年)
この頃の倭人は、初期東表国の北倭の人々で、シュメール人と、中国南方苗族と、半島を南下した姫族と列島で文明を築いてきた縄文人の融合する新縄文人と言える。
この紀元前1000年の倭人の記述を明確に論証する別の歴史書は、契丹北倭記とそ、れをつないだ、本説しか無い。
また、そのころの朝鮮半島北倭は、殷の争いに伴う大陸北からの南下侵攻勢力に常になやまされて来た。徐々に北倭の北に熊襲と呼ばれる勢力が台頭する。熊襲はどこか?という議論がいままで収束していない。文献を繋ぐと初期熊襲は朝鮮半島北部で、後期は熊襲勢力が熊本周辺に南下航海し移民拡大したことがうかがえる。薩摩隼人は別系統だ。
東表国の南倭領域は、半島との航海では潮流の関係があり、西は佐賀、東は下関遠賀川あたりが航海港拠点として拡大していた。潮流の関係で半島まで横断往復するには出港と寄港が場所が違うためだ。また稲作では温暖な有明海と瀬戸内海山口県周防、四国伊予を円周とする領域が中心であったと推察できる。交易は、太平洋側より、むしろ日本海側が海流や風が安定しており、拡大していた。
日本列島東北に残る不思議な古代からの伝承
日本列島東北の側クナト王の国家について当時の状況を説明する。青森三内丸山遺跡にそれ以前から居住し文化を形成していた縄文人と合流し居住していた紀元前1500年から後、日本海側太平洋側双方に徐々に南下を始めた。蕎麦の栽培や冬サケ漁を糧としていたので、東てい国と呼ばれた。さらに後世扶桑国や蝦夷とよばれる。越のヒスイ、タール、黒曜石などを開拓交易をし文化を形成発展しており、日本海側が第1の勢力拠点となって広がっていった。第2の勢力拠点は太平洋側南下だ。
常陸、鹿島
ホツマツタエ(秀真伝)という古代文献が存在するが、真偽不明とされている。ここでは秀真(ホツマ)=東(アズマ)の訛りであり、東伝(あずまつたえ)と解釈する説に同意する。つまりクナト民族と縄文人が融合した新縄文人の伝承である。これと関連して列島にみられる変わった古代文明説を考える。太平洋側では仙台などに古代文明説伝承があある。さらに、そこから常陸、鹿島に文化が南下し、さらに富士古代文明から、浜名湖北岸縄文文明、さらに伊勢古代文明説も実際語られるなど、太平洋側に不思議な文明の南下伝承があった。これらはクナト族が南下したとすると、古い歴史で、又それら地域から見ると北方あるいは東方より来た民族の発症文化である説となる。北方からのクナト族の日本伝来と南下を加味すると説明できる。常陸、鹿島まではクナト族単独、それより南は鹿島まで東進航海してきたシュメール・アッカド人と合流した以降の活動と捉えれる、矛盾はない仮設だ。
また青森にイエスキリストが伝来した、という伝承もあるが、ユダヤの源流シュメール文明の人々の伝来があったことで説明がつく。補足で悲しい話ではあるが、東北太平洋側は数千年のレンジで見ると、津波に何度か見舞われている。太平洋沿岸に文明が定着しにくい。日本海側に古い伝承が多く残っているのはこの理由もある。青森津軽湾にある三内丸山遺跡だけは、まさに津波の影響を受けにくい歴史が継続していく地勢だ。だから遺跡が残ったといえる。仙台も内陸、常陸文明も内陸だ。(地質学からの記録として東北三陸地方には、巨大津波の痕跡が残っている。紀元前1500年、紀元前1000年、紀元前800年、紀元前100年の顕著な津波跡が報告されている。)
紀元前1000年頃 箱根神山が爆発崩壊し、堆積物により芦ノ湖が生成される(日本火山総覧)。
また琵琶湖周辺でも大地震。湖岸の一部が水没か。(北仰西海道遺跡)(津田江湖底遺跡):縄文遺跡が水没しているということは、これらの時代に縄文文化が広がっていた証拠だ。それも湿地低地定住だから稲作文化だろう。縄文文化とは言うが、シュメール民族(国東経由、青森経由)と融合した新縄文人(弥生人)達といえる。
紀元前800年頃 縄文海進で海面が現在より4m低下、寒冷化の時期だ。北倭、南倭の交流ルートの一つである下関は航海ができなくなってきた可能性がある。こうなると国東半島の鉄鋼は半島への輸送には、遠賀川領域での河川輸送と陸送の併用あるいは薩摩半島を反時計方向に迂回する必要が出て、徐々に価値が薄れてきたのではないかと推察される。後述するが、肥後球磨川領域での採鉄や出雲での採鉄が徐々に拡大していった。
周建国の姫一族の半島南下
紀元前771年 周が滅び、東周から春秋時代へ変わる。上記のように寒冷化による天候不順、飢饉があった。人々はさらに南下していった。周建国の姫一族は半島へ逃避した人々がいた。これらの人々は北倭に融合していった。また南の山東半島には呉国が形成されていった。
紀元前500年には中国山東半島から見て東方海の向こうに君主国があった。
紀元前500年前後 春秋時代の儒家の孔子は有名で実在する。彼が、山東半島からみて”東方に君主国があり、うらやましい住んでみたい”と論語で語っている。
『論語』「子欲居九夷 或曰陋如之何 子曰 君子居之 何陋之有」
子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰く、陋(ろう)なり。之、如何(いかん) と。子曰く、君子之に居す。何の陋か之あらんと。
孔子が(道理の廃れた国を厭い)九夷(の国)に住みたいと言った。
ある人が、九夷は陋であるのに一体どういうことか?と問うと、
孔子は「君子が居る国なのだから何のいやしきかことがあろうか」と応えた。
孔子は山東省にいたので、そこから東方向は半島の北倭、または日本列島の南倭を指す。つまり倭国だ。姫氏や呉人の交易から情報を得ていたのではないか。この道教儒家一族の子孫の一人に後述の徐福が当てはまるといわれる。
この記載を明確に論証した解説書は、契丹北倭記とそれを繋いだ本説だ。
紀元前600年出雲王国の出現、姫氏系統大山津見神の因幡、伯耆国の出現
紀元前600年頃 この時期に、青森から徐々に越後に南下していたクナト一族がさらに出雲にまで進出定着するようになる。(出雲富家口伝)
越のヒスイや能登の漆、隠岐の黒曜石などの交易権を占有し、また稲作に適したより温暖な地域へ徐々に南下してきた。サケ漁やソバの栽培も強みだった。出雲王国クナト国の建国は紀元前六世紀と口伝されている。出雲富家口伝には先祖の伝承に日本にいない像の記述が表れる。またインドから北を経由して移住してきたと明確に口伝が残っている。このころが出雲建国時期と重なる。交易では、半島姫族や呉人から成る宗像海人族は協力関係であったと思われる。出雲王国は岐神(クナト神)を祭るクナト国であった。初代国王は大名持と呼ばれ名前は菅之八耳であり八耳王とも呼ばれた。
この頃には出雲国以前既に大山の北や西山麓には大山津見神の源流である豪族の因幡、伯耆国が形成されていた。出雲国はここから妃を迎えていた。朝鮮半島を南下した姫一族と考えられるが、神話や史書では曖昧にしか記録が残っていない。後の肥後、薩摩の大山祇神(オオヤマツミ)が天孫降臨の日向神話(瓊瓊杵尊(ニニギ)の、笠沙(かささ)の岬(現在の鹿児島県野間岬)の物語)に繋がり残っている、両者大山の名称が残るのは源流が同じで、出雲伯耆から大山を拝むクナト系と関連(融合した歴史)があると推察できる。大山は大陸山東半島の古代道教の霊山泰山/岱山/太山/東岳を崇める人々が渡来開拓し命名したとの説がある。これも姫氏系統の人々であり、その時代と矛盾しない。さらに姫氏や道教の人々は、元をたどれば世界航海を拡げていったシュメール文明の人々だ。
この紀元前500年頃 富士山が20年の間をあけて2度噴火している。太平洋側は不安定だった。
海人宗像一族
紀元前473年 中国では呉が越に侵攻され消滅する。この時海に退却した呉人の一部は、帰れず、九州糸島にたどりついた。ここで東表国(豊国:トヒョクニ)と手を結び、呉人は糸島に居住を限定し、東表国を侵害しないと誓い、大陸との交易に協力する代わりに、呉国の再興を誓い、越と対戦すべく力を蓄積する協力関係が出来上がった。臥床心胆という言葉はここから生まれた。大陸側の交易拠点は、朝鮮半島北倭経由と呉のあった山東半島だ。これら呉人はのちの海人族宗像一族と呼ばれるようになる。呉人は航海術に優れ、日本海交易の旗頭となり、越のヒスイを交易に広げ、これらも含め大陸との交易の役割中心となり、倭の発展に欠かせない存在となった。肥後球磨川の渇鉄鋼採取も呉人が拡げていったようだ。これを機会に青森から南下しているクナト一族と交流が広がった。クナト一族の南下や拡大が早まった。
熊襲は当初朝鮮半島北部にあり、その後九州肥後、球磨地域へ南下
紀元前462年 北倭の北側の熊襲の一部が、東表国の背後を突くべく、海を迂回南下して熊本、球磨川領域に侵攻し熊襲を興した。背後をつかれる心配の出た東表国は、阿蘇山南日向高千穂ルートを死守すべく拠点を築き対峙し膠着が続いた。高千穂周辺での活動が神話に残った。
”河童”は河川に入って褐鉄鉱(砂鉄の塊)を採る人々を不思議に思ってそう呼んだ。
球磨川領域は、位置関係だけの重要性ではない。100万年以前は琵琶湖にも匹敵する人吉湖があり、阿蘇周辺鉱物床から流れ出る鉄分が葦の根元に堆積し石化した褐鉄鉱(砂鉄の塊)が豊富に産出する。これを発見して熊襲民族が移動する。国東半島、出雲に対峙する鉄産地であった。そのため悲しい奪い合いの歴史が、熊襲伝説を作り上げた。移住してきて河に堆積する褐鉄鉱や砂鉄をとる人々は河童(かっぱ)と呼ばれ不思議がられるようになる。のちに海童(わたつみ)という言葉も見慣れぬ人々という意味で徐福伝説の時代(紀元前2世紀)から出来てくる。
紀元前334年 呉を滅ぼした越が今度は楚によって滅亡した。越と対戦し呉を再建する誓いを立てた糸島の呉人は、目的がなくなり、先の宗像海人族として、東表国に融合していく。
球磨、薩摩の発展(歴史書にはあまり現れていない)
紀元前334年ころ その中国戦国時代に鹿児島(薩摩隼人)に越から中国姫一族が、大陸での争いに敗れ漂着した。薩摩風土記に記録されている。
姫一族は、周国設立の王族であり、当時越の王族でもあった。朝鮮半島にも以前より当然姫勢力があった。東表国はこの姫一族薩摩上陸を許可すると講和を結んで、よい関係を作ろうとした。それは宿敵熊襲の南側背後をついて挟み撃ちができるからである。中国大陸呉系統の宗像海神族と融合していった東表国であり、同じ大陸の姫一族とは、言葉が通じたのだろう。また半島で既に姫一族と良好関係を築いていたと思われる。球磨、肥後の姫氏系統一族とも合流した。そして姫一族は有明海東表国にも融合進出し、八女、姫、海 といったキーワードに関係して地名や氏族名を残していった。同時に中国から渡航してきた経緯からわかるように航海術に優れ、半島へも交易進出した。上述のように朝鮮半島には既に周建国の姫一族に関係する人々がおり、交流交易は平易に半島と広がったと推察される。そのころには熊襲と薩摩は平和な関係に合流融合してきたかもしれない。航海術に優れたため当然太平洋親潮に乗って東方へも拡大していった。呉から宗像一族となっていった人々の中にも姫一族が含まれるといわれる。肥後風土記には呉の人々が球磨川領域の鉄採集に移住してきたとの伝承も残っている。
肥後、球磨、薩摩から安芸、吉備、大阪河内湖北部摂津へ、そして紀州以東への広がり
薩摩は、太平洋側黒潮の流れがあり、黒潮航海技術に優れた姫一族は四国高知、瀬戸内海、紀州、河内、あるいは伊勢志摩、愛知知多への移民、交流が進んだと推察される。四国徳島の吉野川が紀伊半島吉野川の由来と言われる。四国から紀伊半島へ人々が移住し、故郷の名前を付けた。吉野川はキノカワが元の呼び名と言われ紀ノ川、または姫ノ川が源流とすればまさに姫一族の由来を表す。愛知知多半島には、薩摩の野間と同じ野間という地名が残る。この点の古代仮説は少ない。理由は姫一族が薩摩に紀元前350年に漂着した伝承が薩摩風土記にとどまって認識が広がっていないためだ。紀州の開祖紀氏は”き”と読むが姫も”き”と読む。紀氏の源流が定説がないが、姫一族が源流と推察している。松野連姫氏系統図で紀元前483年姫氏の系統者は忌氏(キシ)だった。また熊氏も阿岐氏(安芸)も姫氏系統で記録がある。紀州には熊野という名称が重視される。愛知に熊埜を”くまの”とよむ習慣が残っている。熊埜は”くまそ”と普通読める。熊襲には熊襲健(クマソタケル)が伝承されている。愛知尾張、三河に関連してはヤマトタケルが有名だ。ヤマトタケルの兄も愛知三河猿投山に関連して伝承が残っている。タケルは当時名前ではなく熊襲リーダーの役職名だ。また12代景行天皇の息子について言うとタケルという名前では無理がある。そうなると記紀編纂時に無理に伝承をつないだと考えられる。出雲口伝にもそれを裏付ける記述が残っている。愛知にタケルという名称の人物伝承が残っているということは、早い時代から愛知に熊襲関連民族の南九州(肥後、薩摩)から紀伊半島経由の移住があったことがうかがわれる。”くまそ”に関係した民族、薩摩姫氏に関連した民族を含んで、融合して徐々に”くまの” になったと私は考えている。
補足だが、このずっと後紀元200年以降になるが、記紀神話では大山祇神(オオヤマツミ)はこの薩摩の有力者と記載されている。姫一族が起源と考えられる。瀬戸内海大三島に第1宮大山祇神社が祀られ、またはまた富士山信仰にも関係していることから、当初宗像海人と呼ばれる一族系統の仲間から、神武系統へと融合し東征で瀬戸内海以東に進出していったようだ。進出は神武東征を支援した時代(紀元200年以降)から大きく広がっていったが、そのはるか前紀元前200年より前の徐福やクナト国の時代にも既に紀州や河内、摂津に少しづつ広がっていたと考えられる。神話では大山祇神(オオヤマツミ)は瓊瓊杵尊の義父であり、瓊瓊杵尊は神武天皇の父だ。大山祇神(オオヤマツミ:姫一族)は航海が得意ではあるが、その後宗像海神(人)族に対して山神(人)と呼ばれる側となり、前記のように富士山信仰にも関与する。山人はヤマトとも読める。上述の球磨川領域で算出する褐鉄鉱は薩摩でも同様に産出する。大山祇神(オオヤマツミ)の時代には、産鉄、製鉄技術がかなり重要な位置を占める国だった。製鉄など鉱石技術に強い様子が山人と伝承された経緯だ。繰り返すがこの姫(ヒメ)一族は(キ)とも読め、紀州の始まりに関与する紀一族の源流だろう。また古代大阪湾河内湖北部摂津周辺の初期古代国家も、紀氏(姫一族)が源流だと推察できる。また海彦山彦が両者の象徴として神話に現れる。大山祇神(オオヤマツミ)は瓊瓊杵尊の義父であると同時に神話で素戔嗚の妻の父でも登場する重要な人物情報だ。また、かなり古代より源新羅との交流で出雲とも関係していた形跡が残る。大山は伯耆の大山から由来する。素戔嗚は架空の存在と出雲口伝に記載があるが、それらの経緯と大山祇神(オオヤマツミ)に関連する人々との関係は後述する。
参考に大山祇神(オオヤマツミ)のツミは津見でもあり津来(ツミ)でもある。津来(ツミ)が源流で一族由来を表す。例えばワダツミはハタツミに通じ、秦津来となる。つまり秦国から来た人々を表す。大山祇神=大山津来(オオヤマツミ)は大山、伯耆を由来とし広がっていった人々を表すのだろう。さらに言えば大山は山東半島の霊山泰山(太山)が由来となる。
この微妙なバランスが、続き、倭は一枚岩の東表国だけという状況ではなく、クナト国(出雲)、越国、高句麗から南下した勢力、中国秦から移動した勢力、熊襲、さらにこの姫一族を源流とする隼人、紀氏などが顕在化してきた。
ここまでで一つ注意点は、呉人も越人も王が違うだけで、何れも中国長江下流の水郷地帯に住み、漁業と水稲耕作を営んでいた海人族であり、民族的には殆ど同一の人々だった。つまり、呉が隣国の越に滅ぼされたBC473、越が内陸国の楚に滅ぼされたBC334辺りに、中国江南の地から直接海を越え、縄文時代の日本列島に渡来してきた人々が、中国の先進文化を縄文人たち(正確には新縄文人)に伝えたことから倭に第2期文明開化が起こり(第1期は紀元前1500年のシュメール人到来)、日本列島に新しい時代が到来したのだと考えられ、これらの人々が主として姫一族(紀氏、熊野氏、大山氏)と命名された。ちなみに第3期は、紀元前220年以降の秦氏(古代ヘブライ系統とも言われる)の渡来だ。
関東地方の縄文遺跡から紀元前1000年から紀元前300年までは、人口が安定していたことが解っている。一方で紀元前300年を過ぎると、一時期人口が1/10に激減した特異性が見受けられる。極端な寒冷化や大陸からの疫病の流行と推察されている。紀元元年頃までは人々は南下、西方移動していったと推察される。
出雲王国と宗像一族の融合、連合
紀元前250年ころ 出雲クナト国は、宗像一族と関係を強め、姫を婚姻に迎える関係が始まった。関係の始まりは紀元前6世紀創建の頃の出雲王国第2代大名持の時代に出雲関係者が出向いて融合し宗像一族が形成されたとも出雲口伝には残る。東表国とも悪い関係ではなかったと推察される。比較的穏やかな民族の運営する国家の連携であった。北九州に拠点を移した宗像海神族と宇佐日田有明を中心とする東表国は徐々に融合していたかもしれない。この頃国東半島の砂鉄は海岸砂鉄であって、徐々に鉄需要の中心ではなくなって来ていた。塩分のある海岸砂鉄は製鉄の品質が劣る。塩分のない河川砂鉄は、より高度で高精度高温なダイダラ精錬技術を必要とするが、良質の鉄を製錬産出する。それが技術的に可能になるにつれて、国東東表国宇佐の勢力より、出雲クナト国の勢力及び肥後、薩摩が大きく中心となっていったのではないかと推察される。
ここに至る動きが、肥後風土記に残っている。九州で良質な河川砂鉄は、国東半島河川のほかに上記球磨川領域で大規模な褐鉄鉱が産出された。この球磨川地域に、ある時期呉から来た人々(後の宗像一族、紀氏一族)が河に入り褐鉄鉱の集鉄を始めたとの伝えが残っている。彼らはその様子から河童と呼ばれた。そして彼らは、後に出雲の火ノ川領域に移っていった人々がいる、との興味ある伝承だ。呉という国名が残ることから紀元前数百年頃の伝承と思える。河川砂鉄でも良質度合いの差がある。効率では球磨川領域褐鉄鉱より、出雲特に火ノ川領域の良質な砂鉄は、製錬効果が倍違うとの研究結果が確かにある。中国山脈は良質な鉄鉱物を算出していた。
出雲クナト王朝はクナト神(岐神)とサイノカミ(塞神・幸神・障神・妻神・才神・性神)の夫婦神を祭り、発展的に猿田彦も祭神だった。出雲クナト王朝は、この時期以前より大阪摂津(古代大阪湾河内湖北岸)を拠点とする民族や紀州を拠点とする民族とも交流があったように見える。後述の紀元前220年頃の大名持の妻セヤダタラ姫の実家は摂津高槻三島であり、大きな勢力拠点があった記述が見える。セヤダタラ姫という名前が示すように、摂津で製鉄精練が行われていた模様だ。また紀元前200年頃のクナト国人民の奈良、大和、紀州への移民があるのも、そちらに頼る関係の大きな勢力拠点が既にあったことがうかがえる。出雲クナト王朝と早期から関係のあったこの2派は、薩摩姫一族を源流とする民族(のちに紀氏となる)であった可能性が高い。紀元後の神武東征に触れるが、東征後神武天皇(イクメ大王)が后に選んだのが、この河内湖北岸摂津三島の同家の娘であったことから、かなり長い歴史で製鉄を行って栄えている。
秦の始皇帝時代に不死の薬を求めて蓬莱山を探した徐福伝説の実像
紀元前229年 秦の始皇帝による倭国侵攻の密命を受けた徐福は、先遣隊 ホヒをクナト国王大名持(国王:氏名 八重波津)に近づける計略をした。秦の始皇帝が倭国に関心を持っているのは、秦の東の敵国(朝鮮王否)が朝鮮半島を南下し、敵対勢力を着々と拡大し、倭国を連合に織り込もうと南下していたのだ。始皇帝は、先回りして倭を傘下に入れ、秦と倭で挟み撃ちをしようと画策していた。
先にこの結果を述べると、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。始皇帝の一つの目論見は、始皇帝の死後数年先であるが思惑通り達成された。
出雲の西 現在の島根県太田市の徐福と五十猛
紀元前228年 徐福集団 第1回船団が出雲の西、島根県太田に停泊し、クナト国大名持と協議。上陸定住を許された。一団とは徐福伝説にあるように海童と呼ばれる若い一団であった。これには前年からホヒを派遣し、大名持に仕えさせていたのが信用された。クナト国からみると秦の最新技術(精錬、養蚕、織物、陶芸、稲作、新種植樹)を徐福集団から取り入れたいと考えていた。特に最新の精錬技術であるフイゴによる高温河川砂鉄製錬ダイダラボッチは目を見張るようだった。また徐福は貴重な秦国の鉾を献上した。これが原型となり出雲銅鐸の製造と祭器となっていった。(日本書紀で第11代垂仁天皇が、天皇なのに平定した出雲国に”神器が見たい”と言って、不可解な表現となっている、神器はこの秦国徐福由来の古い伝統の鉾だと推察されている)
上陸に島根県太田市を選んだのは、半島や九州に近く、出雲国から適当な距離があり、また共存できる未開拓地域であったことと、鉱山の発掘できる可能性のある場所(石見銀山)であることを河川調査で把握していた。
徐福は、第7代大名持(国王)八重波津の娘高照姫を妻に迎え、息子五十猛を設けた。五十猛は地名になって残っている。(出雲富家口伝)
神話、記紀に広島県三瓶山がなぜ登場するのか?
この経緯でこの地域例えば広島県境の三瓶山周辺での神話が多い(何故この三瓶山を舞台とする神話が多いか?の説明が今までつかなかった)。三瓶山は石見から東にあり近く、昇る朝日を祀る祭祈の山だった。また素戔嗚の神話にも登場する。この時上陸した人々は海童と呼ばれた。わたつみとも読み、暗示的だ。ワタツミはハタツミ(秦津見 <-秦津来)由来であり、秦国出身者の意味がある。海童の一部は、丹後半島へも進出した。徐福伝説では、第2回船団が子供たちと伝承されているが事実は安心させて上陸するために最初から海童だったと出雲口伝で解る。
こののち事態は一転する。クナト国の大名持、少名彦、つまり国王と副国王が同時に行方不明になり、洞窟から遺体で見つかった。原因ははっきりしなかった。しかし、少名彦側の口伝では、少名彦(氏名:事代主)葬儀の夜、ホヒが徐福集団が行ったと白状したと伝えられている。ホヒも徐福に加担し、その罰を受け、行方不明となったと伝えられた。
徐福集団と、クナト国は冷戦状態となった。
膠着状態を打破するため、徐福は、いったん妻と息子と海童ら一団を残し、秦国へ戻った(退却した)。
徐福のこの一連の行動が荒々しい素戔嗚神話の原型となった。徐福の一時退却は、後世素戔嗚が半島へ技術を求め一時戻った神話に作られた。
クナト国は争いを好まない。悲しみをどうのりこえるかを考えた。徐福の息子五十猛はクナトの血が流れていることもあり、許した。しかし当時秦国という大帝国とその冷徹な始皇帝がいつ襲来するかは、やはり恐怖であった。出雲を守る部隊と、より安全な土地を探す部隊と二手に広がるよう動いていった。
出雲王国から瀬戸内海、北陸、近畿、紀州、東海への王国の広がり
どこに移住していくか、悩んだり占いをしたかもしれない。亡くなった大名持の関係の西出雲の人々は、大名持の妻セヤダタラ姫の実家である摂津高槻三島を頼ったり、そこから大和奈良方面へ広がった。奈良三輪山は縄文時代からの信仰の山であり、占いからそこへ導かれたのかもしれない。三輪山の神である大物主が、出雲の大国主と夢の中で出会い導いた逸話が記紀に残っている。三輪山は信仰の山であると同時に鉱物産出の地でもある。当時ふもとに広がる奈良湖には渇鉄鉱が堆積していた。紀州へも、この頃奈良飛鳥からさらに南方へと移住しており、関係する民族(姫一族、紀氏)が既に紀州に栄えていたと推察できる。大名持の妻セヤダタラ姫は出雲米子美保に残る決意をし、美保神社に後に祭られた。
亡くなった東出雲の少名彦(氏名:事代主)の妻ヌナカワ姫はヒスイで勢いを誇った越後から嫁入りしていたが、息子建御名方富彦と実家の越後へ戻ると決め、その後そこ越後を拠点とし日本海方面と、さらにその後戸隠、長野、上田、諏訪信州へと国を発展させ広がった。出雲クナト王朝文化を広めたのでクナト神(岐神)とサイノカミ(塞神・幸神・障神・妻神・才神・性神)の夫婦神を祭り、発展的に猿田彦も祭神だった。確かに信州を旅行すると、他地域との違いを感じる。独特なクナト神と思われる夫婦神を祭った古い石碑を今でも多く見受ける。また蕎麦の名産地だ。発展拡大に時間はかかったと思われるが、諏訪領域までも至ったので、この地域はこの出雲系で神事もこの系統だ。諏訪湖は堆積鉄が採取できる。その後さらに秩父武蔵方面や、伊豆へ拡大していった。伊豆(イズ)は出雲(イズモ)から由来されたと出雲富家口伝には伝承がある。また”三島神社”は出雲王国第7代大名持(国王)八重波津の妻セヤダタラ姫の実家であった摂津高槻”三島”から伊豆に移住した人々が建立したとも伝わる。伊豆に至るには、年代を要しただろう。その頃には、紀州から太平洋側を東上した、紀氏(姫氏)も合流しながら文化を築いていった。伊豆半島東側熱海には、2000年の由緒があると伝えられる大楠の育つ来宮(キノミヤ)神社がある。私は上記経緯を鑑みると神社名は”来宮”は後世の修正で、”紀宮”あるいは”姫宮”が本来の所以ではないかと考えている。また一方で遠州は富士古代文明説がある。徐福の子孫が富士に渡来した時、歴史を埋もれさせないため竹内文書を記録し残している。こちらは時代から考えると、越後建御名方子孫の移住形成よりも、さらにずっと早期、紀元前数百年頃には存在したと考えられ、そうであればこちらは国東シュメール一族と関東を経由して南下してきたクナト一族らが融合した、紀元前200年よりかなり古代の文明であろう。ただし紀元前1000年頃 箱根神山が爆発崩壊し、堆積物により芦ノ湖が生成される程であったため、これ以降に形成されたのだろう(日本火山総覧)。
悩む徐福、悩む五十猛
また一方 徐福の息子五十猛も母と二人残されて悩んだろう。成人して、出雲太田を離れる決意をし、母を連れ、丹波丹後宮津を開拓する道を選んだ。
ただ、ここには、徐福側に推された思惑か、クナト国側とどちらのための動きか、わかりにくい。丹後は広がり開拓が進むクナト国と協力するための丹波、琵琶湖、奈良ルート開拓にとれる一方、クナト国とその連携国越など日本海側諸国の間にいすわって分断する、という戦略的位置として楔を打ち込んだ、とも見える。
しかし私の想像は、前者である、と立場をとっている。理由は今後を読んでいただきたい。
紀元前 220年春 徐福は、再準備を終え、始皇帝の命令を受け再度 徐福集団を出奔させた。始皇帝は晩年山東半島を頻繁に御幸で訪れている。朝鮮半島の不穏な動きに神経を使っていたのだろう。徐福は不老不死の薬を求め、蓬莱山を目指した、との逸話が残っている。これは子孫が、汚名を消すため後世作り上げたのだろう。
徐福は始皇帝に逆らえないため、悩んだ。初回の倭国到来時もそうだったろう。彼は方士と呼ばれる知能集団の一人であり、また儒教の孔子の部族であるともいわれている。和を望む穏健派集団だったはずだ。しかし逆らうことは、秦に残った一族死罪だ。徐福は悩み2回目の出奔はぎりぎり時期を待っていたはずだ。今回の出奔は始皇帝の余命を察知し死去の数か月前の春頃以降を選んだと想像できる。始皇帝が本当に不老不死を望んだ命令の可能性はある。当時始皇帝は、延命を期待して水銀を常用していた。これが体に良いわけがないとわかっていた。徐福は御幸で来ていた始皇帝の体調、顔色を見ていたはずだ。そして満を持して倭に向かう。
徐福集団は、今回は伝説に残っているように、慎重に出雲クナト国と距離を置くため、筑紫、有明海周辺に拠点を設けた。ここから徐福伝説のように各地に広がっていったのは事実と思われる。まず拠点に定着するには、東表国や宗像海人族といざこざを興さない関係つくりを行ったはずで、これら時間づくり、時間稼ぎをしていたはずだ。そして始皇帝死亡の報告が徐福に届く。
徐福一団の列島定住と、秦一族の広がり
紀元前 220年7月 秦の始皇帝が亡くなった。死亡は2か月隠された。
これで始皇帝の命令遂行も秦に帰ることも急がなくてよい、時間を稼げばよい。時間をかければクナト国と争わなくて済む方向に行く可能性がある。徐福は出奔前から命を懸けて考えていたはずだ。その後秦の徐福周辺、つまり方士集団は秦や秦崩壊後の漢の政権周辺を辞退し東の辺地楽浪の地方の役職を希望したという。つまり秦、漢を抜け出し、一族の倭国移住を画策していた気配が残っている。徐福が倭から事前も含め手引きしたと思える。事実秦崩壊後は、続々と秦集団が半島経由で倭に移住している。物部家の流れ、あるいは秦氏といわれるが、儒教集団は墨を顔に塗る習慣があり、墨家とも呼ばれた。単純な流れではないだろう。
だから徐福は、息子五十猛のクナト国のための丹波開拓を支援したはずと断言したい。それが出雲クナト国への罪滅ぼしだからだ。
徐福は、秦の始皇帝が亡くなり、そのため国に戻る必要がなくなり、伝説にあるように倭に定住した。名前は天火明櫛玉饒速日と改名したと、出雲口伝には伝えられている。倭国王になる野望がその後もあったのか、倭国連合国として静かに暮らしたいと思ったのかは、不明だ。徐福蓬莱伝説ではクナト民族との因縁争いを避けるため秦名を名乗るな、静かに暮らせ、と言ったと伝えられている。また宇佐東表国の市杵島姫を妃に迎えたと出雲口伝には記録されている。
徐福は、筑紫で秦一族の倭国移住をサポートして、亡くなった。亡くなったのは、初めのころ上陸した吉野ケ里遺跡だったといわれる。山東半島に拠点を持つ徐福系統の秦族儒教集団は墨家と呼ばれ、墨で顔にいれずみのように化粧をしていた模様だ。
徐福の兄弟や子孫は、各地に広がり、その地で徐福伝説として残っている。太平洋側では、紀伊半島熊野、愛知県東三河豊川、静岡富士伊豆、八丈島、そして関東武蔵、鹿島までが黒潮で行き来でき伝説が残る。荒波で漂流もあったようだ。八丈島への定住は漂流の結果だろう。日本海側では、丹波丹後はもちろん、敦賀、越後まで伝承が残っている。日本海側も、太平洋側伊豆、関東武蔵にも、鹿島にも先住のクナト系民族や国東シュメール民族が既に居たはずで、秦名を名乗らず、養蚕技術、製陶技術、植樹、精錬技術などを広めていきながら共存融合していったと推察されるし、そう願って止まない。例では紀伊半島熊野の徐福伝承では、海で遭難しかけたところを地元住民に助けられたとの記載があり、出雲クナト系あるいは姫一族系(紀氏一族)とみられる先住者がいたと明記されている。紀元前200年から紀元前150年頃に当時これら各地には既に文化が有ったと裏付け出来る。
そして、そろそろスサノオ伝説の時代になる。
スサノオは実在しない。時代考証をしても、彼だと断言できる人物がいない。それだけでなく、スサノオを逸話として作った、という出雲口伝情報が残っている。合わせてイザナギ、イザナミも逸話として作った、とも残っている。経緯はこうだ。
紀元400年ころ、やっと倭国内の争いや宗教的な争い、勢力争いが(一時的に)収まった。これから何をすべきかと考えた。以前の争いの中で起きた悲しみ、憎しみを引きずってはいけない、と皆が考えた。倭国に移住してきた多様な民族の宗教観や、古くからのシュメールの原型原始宗教などから、どれかを中心にとる、ではなく新しい倭国の尊敬できる宗教観を共有する必要があった。だから、皆が納得できて、なおかつ、どの民族にも依存しない空想の逸話が必要だった。
繰り返して言うと、スサノオは存在しない。イザナギ、イザナミも独自に考えられた。スサノオのモデルとなったのは、紀元前220年前後の徐福と紀元前100年頃のアマノヒボコ、さらに記紀神話海彦山彦伝説の山彦つまり、のちに出現する紀元200年より後の神武/イニエ王(印恵王)/瓊瓊杵尊(ニニギ)の御子である生名(イクメ)大王/豊来入彦のミックスだろう(この無理な二面性、三面性が理解を難しくしている)。具体的には瓊瓊杵尊(ニニギ)の時代設定に時代がまたそれぞれ違う徐福、アマノヒボコを組み合わせ、新羅創設頃(紀元前100年)の物語背景を使い、それを大昔の神話としたと感じる。イザナギ、イザナミは出雲クナト国側のクナト神、幸ノ神がモデルと伝えられる。
そこに至る倭国の争いの時代を少し前から組み立ててみたい。
丹後王国の成り立ち
紀元前200年頃 徐福の息子五十猛は、母高照姫の兄アジスキ高彦の娘大屋姫と結婚していたが、そののち、丹後宮津に移り拠点を構え、海部加語山命と名を変え(のちに天の加語山命)、大陸技術特に高温フイゴ式ダイダラボッチによる高品質鉄器技術を導入し開拓を広げていった。
出雲クナト一族と融和していくには、徐福の息子五十猛という名は、都合が悪かった。眞名井神社を尊社としており、ここには磐座がある。古代呪術信仰的基盤があった民族であることがうかがえる。こののち拡大してく一族は海部系統となり、また拡大し大和奈良飛鳥に開拓で広がっていく。広がった系統は尾張(当初小治)系統となっていく。開拓では琵琶湖を船で大挙して移動した。これが天磐船での降臨と後世に呼ばれた。丹後国は鉄器を交易の武器とし、日本海沿岸のクナト系統諸国と交易、関係を広げていった。また琵琶湖周辺、そこから東へも伊吹、美濃、養老、尾張、伊勢地方への進出をも進めていった。愛知県は尾張、海部郡、海部家などそれら由来の歴史を示す地名、氏族名が残っている。
この時期の関西遺物分布は九州系統の鉄器遺物より丹後鉄器遺物が圧倒的に多い。九州南倭の徐福秦物部、東表国、宗像海人族と交易が多ければ同じような広さで鉄器文化が九州に広がったはずであるが、戦略であったか微妙な関係であったかもしれない。もうひとつの考えられる理由として、鉄は半島からでなく、出雲からかなり算出していたとも推測される。その場合 出雲から交易で筑紫物部系へ鉄が流れることは、この時期考えにくい。次の事案も関係していると推察される。
宗教紛争の始まり
紀元前183年 九州ではユダヤ北朝系とよばれる一団が、徐福系統が進める秦国移民に乗じて筑紫一角に割り込んできた。吉武高木遺跡に拠点を築いた。徐福一団からの秦国一団は、のちに物部系と呼ばれるようになるが、彼らはシルクロード内陸から移動してきたユダヤ南朝系とも呼ばれる。秦の始皇帝も目が青かったという説が広がっている。北朝、南朝系は宗教的な対立が長く、筑紫周辺で緊張感をもって対峙する関係となってしまった。これらの動きは出雲王国側からみると同じ秦国系統物部系統となって見えて、口伝などに残っていない。契丹北倭記のみに伝承されている。このユダヤ北朝系集団は宗教色が強く、祭礼の遺物が多く発掘される。3種の神器はこの集団から祭祈の形式化がされ始まった。
この紀元前183年の動きの要因となる朝鮮半島のこの頃の動きでは、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加していた。紀元前195年、燕王盧綰の部将であった衛満が朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城(平壌)を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。この動乱から南下さらに南倭への移動が進んだとみられている。これにより北倭が不安定になっていくことがうかがえる。また北倭の東方新羅は、北倭と対峙している。当然南倭との交易は難しく、新羅の日本列島との交易は、海流からも出雲クナト国や丹後と交流交易が進んだと考えられる。
饒速火の天磐船降臨伝説とは
紀元前160年頃 丹波丹後や大和では天の加語山の息子天の村雲が奈良飛鳥地域へも進出し勢力を拡大していった。琵琶湖を大挙して船で渡った。数千人を引き連れて丹後から移住したと伝えられる。時間はかかったろう。
天の村雲は、妻に出雲から派生した登美家(富家:摂津三島由来)からタタライズ姫を迎え、徐福の孫ではあるが出雲と融和を図っていた。そのため、出雲クナト一族は大和奈良開拓にあたり三輪山周辺で賀茂(鴨)系統と名乗っていたが、天の村雲と協力関係になった。この磯城王朝を形作っていった天の村雲が実際の第1代天皇と位置付けられる。”海家:アマ”後に”天”の村雲が琵琶湖を船で渡り飛鳥に至る様子が”天磐船”で降ったと表現された。天の村雲は徐福後の名を天火明櫛玉饒速日の孫にあたり、これを饒速日の降臨と表現した。中国”宋史” ”外国伝”に天村雲尊の名が記述されている。父天の加語山を尊んで天乃香久山が命名されその地名が山で今でも残っている。和歌の時代でも天の香語山は特別な山として詠まれているのはこの由来による。古事記では天乃香久山は天金山とも表記され鉄などの治金との関係を想像させる。製錬にはふいごの風が必要で、高地で行われた。また祭礼の山でもあった。こののち4-50年程度毎で世代は交代していく。この関係から大和奈良飛鳥への鉄器、銅器は丹後から丹波経由、または琵琶湖経由のルートとなる。血縁は徐福系統からだが、出雲王家の姫を何代も迎えていくことで、徐々にクナト神、銅鐸を祭る祭祈中心となっていく。紀元178年の第1次東征時期は大和は銅鐸祭祈の時代であったと記録が残る。日本書紀では神武東征(第2次東征)で紀伊の高倉下が協力したと記述されている。高倉下は天の村雲と兄弟で、大和奈良磯城より徐々に南下し紀伊半島を開拓している。記紀神武東征より実際はるかに古い年代の人である。神武東征相当の東征(後で名づけられた)に協力したのは高倉下の子孫である。紀州の開拓は、もともと紀氏の源流である姫一族から広がっている、その姫氏は源流となる薩摩にも拠点を構えており、黒潮に乗った航海交易があり、ひょっとすると熊襲、薩摩からの球磨川産鉄のルートでもあったかもしれない。もう一つの可能性は古代河内湖から採取する渇鉄鋼をほとりの摂津三島での製鉄で利用するルートだ。古事記日本書紀では、この紀元前160年代の時代へ神武天皇を当てはめた。後述するが紀元250年頃の実際の第9代大彦(布都押之信:または富ノ長脛彦:中曽大根彦:ナガスネヒコ:神武東征時代の磯城王朝王:布都は拠点の地名、曽大根は育った地名、富は出雲王家の苗字であることを示す)の時代のイクメ王の東征を初代神武天皇の東征の姿(実際初代は天の村雲命)としてミックスして歴史構成をした。
欠史7代
以降 河内湖、奈良湖、飛鳥での実質王朝を列挙する
紀元前120年頃 神代2代綏靖天皇(カムヌナガワミミ)の時代と推定される。
紀元前108年 漢の武帝は半島に進出し、楽浪を設けた。人々の南下が強まり、不安定になっていく。
アマノヒボコ天日槍の渡来
紀元前100年前後 出雲に当時以前から交流のあった新羅から新羅王子のアマノヒボコ天日槍が渡来した。半島から移住を目的とした。出雲王国連合の取り決めを守らない、と傲慢な態度をとったため、交流があったにも関わらず、出雲王国、伯耆王国、丹波丹後王国の支援が得られず、最終但馬を独自開拓し一族は大変苦労した。ここに落ち着くまでの間に争いもあったのだろう。神話素戔嗚の物語(創造)に経緯が織り込まれている。
--スサノオは、その子五十猛神(イタケルノカミ)を連れて、新羅の国のソシモリに降るも、「この土地にはいたくない」と、土で船を造って、それに乗り、海を渡ってしまう。… スサノオは、根の国に行く前に、姉のアマテラスに別れの挨拶をしようと天上に昇る。スサノオが天に昇るとき、海は轟きわたり、山も鳴りひびいた。このあまりの猛々しい登場ぶりに、アマテラスは、スサノオが国を奪いに来たのかと男の姿で武装してのぞむ。ーー 注記:五十猛は徐福の息子であり、この五十猛記述だけはより古い徐福時代をミックスし織り込んでいるが、あらすじはほぼアマノヒボコ天日槍の行動が原典となっている。ーー
これが後世に部族間のしこりを残した。日本書紀では瀬戸内海播磨に最初上陸と誤った記述(意図した誤り記述)があるが、アマノヒボコ天日槍の一族子孫が悲願である瀬戸内海に進出したのは、ずっと後日の倭の混乱の時代紀元150年頃と出雲口伝に伝わっている。半島の状況になるが、北倭の東側でこの時期この新羅国か建国され、不安定な状況が拡大していた。たしかに当時半島の北倭と新羅は、敵同士の関係にもあり瀬戸内海へ進出するには、敵関係の東表国の関門下関を通り抜けないとたどり着けない。確かに無理だろう。ちなみに新羅系民族の移動拡大はその後 琵琶湖西岸、遅くには瀬戸内海姫路播磨などへ拡大している。この伝聞から、紀元前100年頃も山陰では出雲王国、伯耆王国、丹波王国が力を持っていたと考えられる。またこの後、この但馬国を源流とする新羅系と北倭系を源流とする人々が大陸文化伝来交流のそれぞれのルートになり、ぎこちなく、また対立し不安定な膠着状況をつくっていくことになっていく。
紀元前100年頃 近畿地方で大地震が発生した。(北白川廃寺遺跡)(湯ノ部遺跡)(正言寺遺跡)(針江浜遺跡)(津田江湖底遺跡)(原川遺跡):多くの当時影響を受けた形跡の残る遺跡がみられ、この時代定住が進んでいた様子がうかがわれる。
*琵琶湖西北周辺には琵琶湖の不思議と言われる湖底遺跡が多く分布する。琵琶湖周辺でも何度も巨大地震が起きていた。漁師の網には縄文時代~平安時代の土器が何度も引っかかり、湖底にもロマンがあると不思議がられていた。白鬚神社より少し北西の同市旭町の湖畔に接する所に弥生時代中期(2100前)の針江浜遺跡(高浜市)が眠っている、湖底遺跡の代表例である。湖岸から250mの位置に、湖面から1m深さの所に水田跡、畦道などの農耕地と集落地が、さらに地震による地割や液状化(墳砂現象)も検出され、マグニチュード6以上の激しい振動を受け沈下したとされる。この遺跡は琵琶湖西では最古の弥生遺跡。用水に困らない内湖が形成するデルタ地帯から水田開発が始まったとされる。 (Web:趣味悠遊・古代を訪ねて)
紀元前75年前後 神代3代安寧天皇 の時代と推定される。
紀元前30年前後 神代4代懿徳天皇の時代と推定される。
紀元元年前後 このころ高知沖 南海トラフでマグニチュード9の巨大地震が発生し、高知で数10メートルを超える大津波の痕跡が見つかった。
マグニチュード9の超巨大地震であったことから南九州宮崎方面や紀伊半島も(未調査であるが)同様で大津波があった可能性が高い。甚大な被害があったのだろう。これが要因で太平洋側沿岸の人々は津波再来を恐れ、例えば紀伊半島熊野の人々が内陸に移った。また九州宮崎西都が同様に内陸に移り形成された。薩摩西岸域は被害が少なかっただろう。薩摩を構成した姫一族はこの西岸へ移動していく。これらの経緯から天孫降臨の日向神話での瓊瓊杵尊(ニニギ)と大山祇神(オオヤマツミ)の場面が、笠沙(かささ)の岬(現在の鹿児島県野間岬)の物語となっている。この紀元前後の南海トラフ巨大地震による大津波の被害を考慮すると、不便な内陸地での神話の説明がつく。この時代から不安定な時代へと入っていく。
紀元15年頃 神代5代孝昭天皇 、
紀元60年頃 神代6代孝安天皇(国押人大王:クニノオシヒト)
この王の時代魏へ朝見したとも言われる。”倭面土國”が魏誌に記述されているが、いまだ所在の定説がない。(後述で出雲口伝解釈を示す)
倭国大乱
紀元110年より長期間天候不順の痕跡が遺跡に観測されている。
紀元105年頃 神代7代フトニ大王(孝霊天皇:磯城王朝から吉備王へ:天候不順が要因と中国山地の鉄を占有することが目的)、以下変遷の概略をまずまとめる。
紀元146年から189年 の間を含めて後漢書に倭国大乱があったと記載伝えられる。気象学からこの時期紀元110年頃より長期間天候不順の痕跡が観測されている。
紀元150年頃 但馬のヒボコの子孫勢力による出雲王国領ハリマ(播磨)への侵攻が始まった(出雲口伝)。天候不順による凶作も要因だろう。その播磨をヒボコの子孫勢力が戦いにつかれたところを狙って、大和のフトニ王が進行し、占有し、さらに吉備まで進出した。
紀元150年頃 神代8代孝元天皇(吉備のフトニ大王の息子クニクル大王)、
紀元160年頃 吉備国へ進出したフトニ王は、出雲も平定しようと出軍した。双方打撃を受けこれは休戦となった。
紀元178年 九州南倭内の争いから、吉武高木遺跡から始まった委奴国が負け壊滅し、逃避した人々が太平洋を経由し奈良飛鳥に流入した(第1次東征)。この九州南倭内の争いからの奈良飛鳥への委奴国の人々の流入はその数十年前から徐々継続的に起きていたと推察される。
紀元195年頃 神代9代開化天皇(オオヒビ大王)、
紀元 240年頃 第10代大彦命(布都押之信:富ノ長脛彦:ナガスネヒコ:中曽大根彦:神武東征時代の磯城王朝王:都押は拠点の地名、曽大根は育った地名、富は出雲王家の苗字であることを示す)
近年発掘され話題の埼玉稲荷山古墳から発見された鉄拳にしめされた王オワケノオミの系譜は、大彦命が父祖との文が刻印されていた。大彦命が大和の王であった意味合いになる。
まとめると
天の(海部)村雲以降、こののち、カムヌナガワミミ(綏靖天皇 )、安寧天皇 、懿徳天皇 、孝昭天皇 、国押人大王(孝安天皇) 、フトニ大王(孝霊天皇:磯城王朝から吉備王へ)、フトニ大王の息子クニクル大王(孝元天皇)、オオヒビ大王(開化)、大彦(布都押之信:富ノ長脛彦:中曽大根彦:神武東征時代の磯城王朝王:都押は拠点の地名、曽大根は育った地名、:富は出雲王家の苗字であることを示す):記紀では生目大王(イクメ)の東遷を含め 、ヒコイマス王(垂仁天皇) と続く。欠史七代(九代)と呼ばれるこのころの大和はこの当時倭ではなく、出雲クナト王国、丹後丹波王国(のちの海部、尾張連)の系統である扶桑国、東てい国であった。
この頃紀元前後の中国大陸は、大騒乱の時代で、人口が一気に十分の一に激減するという程想像を絶する紛争事態が起きていた。その影響は朝鮮半島へ拡大し、朝鮮半島南部も不安定な状況が拡大していく。
ここから
一度 紀元後の南倭の記述に移る
漢委奴国王「かんのわのなのこくおう」と刻印された金印
紀元53年 漢委奴国王「かんのわのなのこくおう」と刻印された金印が漢から授与され、その後昭和に入って九州糸島から発見された。このあたりの王が漢から倭の連合国王と認められ、この年授けられたと一般に言われている。つまり倭全体を統治する国王がここに居たという仮説だ。これは誤りで、吉武高木遺跡を拠点とするユダヤ北朝系一族が委奴国「いとこく」として一国が認められたものが正しいのではないかと、見直されつつある。つまり漢委奴国王は「かんのいとこくおう」と読むべきだった。当然のように見える。委は倭ではないし簡単に誤記と解釈すべきではない。委奴国「いとこく」は紀元178年伊都国(いとこく)に代わる。その理由は明確で後述する。
朝鮮半島の歴史書三国史記に現れる倭国の東北千里の多婆那国(タバナ)
紀元57年 朝鮮半島の歴史書三国史記には新羅の第4代王に脱解王が王位に就いたと書かれている。また脱解王の出身は倭国の東北千里の多婆那国の王子であったと記載がある。当時倭国とは、半島と九州を跨ぐ北倭、南倭領域を倭国と呼んでいた。多婆那国は因幡、但馬、敦賀あたりと推察される。可能性が最も高いのは新羅から紀元前100年頃移住したアマノヒボコ天日槍が開拓した但馬(タジマ)だろう。また倭人の孤公を徴用したと記載ある事から当時倭は朝鮮半島周辺で依然と存在感を持っていた。但馬は良質な製塩で、新羅と交易があったようだ。敦賀は大陸史書ではクヌガと記載されている史書も見受けられ、そうであればタバナは因幡あるいは但馬だろう。
倭面土國王師升とは? ヤマトコクオウシヒ?
紀元107年 この動きに対抗して、我こそ国王と、倭面土國王師升が金印を求め、朝見した、と魏史に記録がある(倭面土はヤマトと読める)。このあたり、まさに我こそは、と争っていたか争いが始まった形跡がある。推測は2案ある。
宇佐東表国と宗像海人族、秦国系物部一族、肥後薩摩の連合が倭面土王を連合国王として、委奴国と争った模様だ。今回倭面土國王師升は、天孫降臨の日向神話(瓊瓊杵尊(ニニギ)の、笠沙(かささ)の岬(現在の鹿児島県野間岬)の物語)として残っている薩摩の大山祇神(オオヤマツミ)の祖先(姫氏(周の開祖)であり、彼らがその後紀氏となる)と仮設化する。
もう一つの仮説は、出雲富家口伝にのこる大和の第6代王 国押人(オシヒト)がこの人に当たるとの伝承だ。発音の後半が強調され、”オシヒ”が”シヒ”になり、”シヒ”が”師飛”と書かれ、後日転記で似た漢字の”師升”に誤ったと口伝に残る。そうであれば倭面土國王は明確に”ヤマト”だ。ここまで口伝が具体的であれば、こちらが史実だろう。
このころ、大和奈良飛鳥以東は倭国ではなく、出雲国の由来である東北から南下したシュメールを源流とするクナト一族と、丹後から拡大した五十猛(海部加語山)の子孫、さらに上記の肥後薩摩から黒潮に乗って移住していった姫一族(紀氏一族)が融合して構成する扶桑国(サケ漁を特徴とする文化)、あるいはたいこく(臺国)、さらに東てい国と後に呼ばれる領域だったが、ヤマト(山人、大和)と呼ばれ始めていたようだ。
こうして、日本列島には、北倭/南倭系統、秦系統(北朝、南朝)、出雲クナト国系統、海部系統、北陸源クナト国系統、新羅系統、姫一族紀氏国系統などが拡大していった。
卑弥呼の時代前の倭国大乱
紀元146年から189年 の間を含めて後漢書に倭国大乱があったと記載伝えられる。気象学からこの時期紀元110年頃より長期間天候不順の痕跡が観測されている、特に紀元150年ころ中部養老地域に象鼻古墳遺跡があるが、大洪水の痕跡が土地、年輪など遺物に記録されている。全国的に天候不順、凶作が長く続いていた模様だ。生き残るため穀物の争奪が起きていた。ここで事例に上がった岐阜養老の象鼻遺跡は古墳遺跡であり、その建築推定時期がこのころであるという、全国的に見て珍しく貴重な古墳遺跡だ。古墳時代は5世紀ごろと定説では定義されている。象鼻遺跡ではその文化は紀元2世紀にさかのぼると定説を覆す遺跡事例となっている。調査解明が待たれる。さらに象鼻山という場所の名前も示唆的だ。象は日本にはいない。出雲の源流となったインダスから日本に移動したといわれるクナト一族はもちろん象を知っている。誰がいつなぜその地名を命名したのか興味は尽きない。
このころから、卑弥呼(姫巫女)、邪馬台国の時代に入っていく。(キーワード:倭大国、大和大国臺国、邪馬壹国(やまいちこく))
紀元150年頃 但馬のヒボコの子孫勢力による出雲王国領ハリマ(播磨)への侵攻が始まった。
その播磨をヒボコの子孫勢力が戦いにつかれたところを狙って、大和のフトニ王(孝霊天皇)が進行し、吉備まで進出し占拠した。吉備制圧の状況は後に桃太郎伝説で吉備の鬼退治と語られた。
紀元160年頃 吉備国へ進出したフトニ王は、鉄の豊富な出雲も平定しようと出軍した。双方大きな打撃を受けこれは休戦となった。これらの様子をうかがっていた筑紫物部勢力(委奴国を含む)は、和歌山の和歌の浦に上陸を開始した。これを恐れた大和のフトニ王とその息子らは吉備に留まることとなった(出雲富家口伝)。これは下記の動き前後のことだろう。
宗教、祭祈の争い
紀元178年 吉武高木遺跡から始まった委奴国とその東側筑紫秦国と東表国連合は宗教の違いもあり、大きな争いとなって、委奴国は負け壊滅した。占領地は伊都国と、名が改まった。なぜなら後の魏への報告(紀元230年頃)には、漢から認められ金印を授与された委奴国を滅ぼしたと、話すわけにはいかない。あいまいにした。魏志倭人伝に伊都国の戸数が他国と比べて異常に少ないこの実情がそのまま記載されている。北朝系一族は、西に逃げ、南下し鹿児島を迂回し、太平洋から黒潮に乗り紀伊半島から大和奈良へ逃げ、なだれ込んだ。この争いは長く、これによる東方への退却は、紀元160年頃から徐々に始まっていた模様だ。
三種の神器と銅鐸を埋めた行為
大和奈良では、この宗教色の強いユダヤ北朝系一族と、クナト民族の間で、宗教戦争が新たにおこり、3種の神器、鏡を祭るユダヤ北朝系はクナト民族の銅鐸を壊して回った。これを避けるためクナト系の人々は銅鐸を埋めて隠した。奈良飛鳥地域が不安定になる要因となった。出雲口伝では、これは物部系の第1次東征という表現で単純化し伝えられている、ここまでの詳しい内部情報は当時出雲側では情報収集できていなかった。契丹北倭記と照らし合わせて初めて具体化つながってくる。この委奴国つまりユダヤ北朝系民族と、それを追いかけたユダヤ南朝系民族つまり秦一族あるいは後世物部一族と呼ばれる人たちの東への移動が、神武東征以前の饒速日の第一次東遷として古事記では,かすかに記載されている。ただし饒速日は紀元前200年前後の徐福の和名であり、徐福系統の物部系統人物の東遷を饒速日と象徴的に命名したのだった。あるいは別表現では、神武東征時のこの饒速日は既に上陸統治していた、との記述と捉えれば、これは徐福(饒速日)の息子五十猛(和名:天の加語山)のまた息子である天の村雲が、饒速日の末裔であり、丹後から既に大和奈良で地盤を築いていた上記経緯を述べているとも言える。
天孫降臨の時代
九州南倭状況に戻ると、北朝系一族を抑えるため、東表国は、半島から物部秦国勢力(南朝系)の上陸拡大を許したが、これが魏と関係の強い勢力であったので、その後逆に混乱が拡大する要因となった。親魏勢力が半島から南下占拠することとなってしまった。半島は当時寒冷化で穀物凶作が起き、民族は南下せざるを得なかった。いわゆる神武東征の前段階の南下である。これは常世からの天孫降臨の神話でもある。出雲口伝では、神武ではなく、イニエ王(印恵王)としている。『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)と適当な記載がある。神話の瓊瓊杵尊(ニニギ)も情報を繋ぐとイニエ王(印恵王)となる。もう一つの可能性は、瓊瓊杵尊(ニニギ)はイニエ王(印恵王)の父だったかもしれないという推測は残る。ここから親魏物部秦国と東表国を含めた南倭諸国が争いになっていく。
常世は朝鮮半島
天孫降臨は、”常世”から降臨する。当時 半島で”常世”に類する歴史記述が現存しているのは、常世氏、常世連という言葉がある。注目すべきだ。彼らは半島の北部帯方を支配していた公孫氏の南下一族といわれる。オモイカネ神の系統が相当するとも記紀に書かれている。彼らが天孫降臨主要部隊だろう。公孫瓚との関係は親派であったか、反主流であったかは定かでないが、私は親魏の半島反主流であろうと推察する。この頃卑弥呼が登場する。卑弥呼(姫巫女)は、表には出ず、反魏の遼東半島の公孫瓚氏や半島北部帯方の公孫淵氏と良好な関係を築いていた。公孫淵氏は紀元238年亡くなる。
卑弥呼と遼東半島の公孫瓚、帯方の公孫淵
歴史の長い東表国は、当時 卑弥呼の時代紀元190年代以降は魏と対立けん制関係にあった遼東半島の公孫瓚と連立し、紀元199年公孫瓚が亡くなるまで親魏の物部秦国勢力と対抗する構図で、バランスをとった。紀元200年以降は、魏と対立する帯方の公孫淵と連携していたと、推定される。公孫淵氏は紀元238年亡くなる。
卑弥呼は姫巫女で豊玉姫で竜宮の乙姫のモデルで、月読みの尊でウガヤフキアエズ王朝系統女王
この東表国でこの動きを主導したのが卑弥呼だった。卑弥呼は魏から見た蔑称で、北倭、南倭を総称する東表国の女王姫巫女である。国東半島地域を源流とするウガヤフキアエズ王朝系統女王である。また神話の豊玉姫(玉依姫)でもある。公孫瓚が拠点とする遼東山東半島は、昔呉が在り、呉人が源流である宗像海人一族がその関係を取り持ったことは容易に想像できる。公孫瓚は政治手腕では良い評価が残っていないが、遼東半島の占い関係の人々、絹商人、豪族(商人)と強い協力関係を構築し、それらの人々が支援したと記録されている。これらの人々の中に倭の宗像海神族、月読の巫女の系統族がつながっていた。
紀元199年 倭と連携していた山東半島の公孫瓚が北西の大国魏、南の蜀の2国と長く争っていたが、この年敗れ亡くなった。また後漢は紀元220年滅びていく。これにより徐々にバランスが崩れはじめた。まず中国で、公孫瓚と対峙していた南の蜀の孫権は徐々に勢力を拡大していく。彼はこれらをチャンスと魏との戦いの準備のために、公孫瓚と連立していた倭(当時 魏からは亶洲、夷洲と呼ばれていた。倭も攻めこまれないために存在情報を隠していた)を大船団を組んで攻め、兵に使う人質を取ろうと画策、行動した。
蜀の孫権は将兵万人を遣わし、海に出て夷洲および亶洲を求めさせた。
黄竜二(230)年の春三月、(中略)、孫権は将軍・衛温、諸葛直ら将兵万人を遣わし、海に出て夷洲および亶洲を求めさせた。亶洲は海の中にあり、長老は伝えて(次のように)言っている。
「秦の始皇帝は、神仙の術を持つ徐福に、童男童女数千人を連れて海に出でて、蓬莱の神山と仙薬を求めさせたが、(徐福一行は)この島に留まって帰らなかった。代々続いて数万家にもなり、そこの人民は、時に会稽に来て取り引きをすることがある。会稽の東の県人は海に出て風に流され、(そのまま)移って亶洲に行った者もいる」
その住んでいる所は果てしなく遠く、将軍らはついに亶洲には行きつけなかった。だが、夷洲(台湾といわれる)には行くことができ、数千人の捕虜を連れ帰ってきた。
蜀の孫権が夢や伝説の国に向けて一万人の船団を向けることはあり得ない。またこれを決行した紀元230年は、半島帯方の公孫淵が弱体化しつつあり、倭を攻めるには、倭の後方援軍が無くなった、まさに絶好のチャンス時期と言える。
『日本書記』御間城入彦五十瓊殖天皇、『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)とは?
紀元230年代 蜀の孫権の一万人の大船団は倭には至れなかったが、魏と連携したイニエ王(印恵王)「『日本書記』御間城入彦五十瓊殖天皇、『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと):崇神天皇と記述」の物部勢力は、恐れおののき、対応を急いだ。それにはまず南倭を含め九州全土を統一し対抗体制をつくっていく。そのための薩摩、宮崎への南下侵攻平定を急ぎ、孫権の攻撃に対応する準備をする。そのうえで、まず呉からの攻撃に直面しない九州東側宮崎都万を対抗軍事拠点とし、さらに最終は攻撃に直面しない大和クナト国領土を領土化する東征を行うこととした。そのためまず南征を進め薩摩を平定する。そして次に宮崎 西都当時都万に対孫権基地の意味と東征準備の拠点を設けた。
重要な点で、歴史上あいまいになっている事案がある。当時下関海峡は陸続きで船が通れなかった。これが邪馬台国時代の歴史考察で抜けている。当時寒冷化が進み海面が低下していた(紀元前800年で -4m、紀元前後で -2m)。当時九州筑紫から船で東征するには、薩摩、宮崎を経由するか、日本海経由しか方法がない。山口県は長門とも呼ばれ、下関海峡が通りにくい重要な関門であったことを示しているが、長門は後世命名されたのであって当時は長門ではなく穴門、洞門(あなと)と呼ばれていた。人が通れる程度のトンネル洞窟が開いていた、ということが記録に残っている。これを工事で通れるようにしたのが、後の仲哀天皇、神功皇后の時代だと、古事記に記載されている(神威によりくずれた、との記載をしている)。
狗奴(クナ)国とはクナト神(岐神)を祀るクナト国(岐国)、つまり出雲国のこと
出雲クナト国および大和クナト国領土は、親魏イニエ王(印恵王)から魏には、あいまいに敵国クナ国(狗奴国)と伝えられた。クナトと話したのにクナと伝わったのかもしれない。これが魏志倭人伝の狗奴国の実態だった。*クナト神はWikiで解説がある。
狗奴国は場所が特定しにくく諸説が乱立している。それは倭が魏に兵法としてわざと正しく伝えなかったことによる。熊襲/球磨国を発音が似ているとして狗奴国とする仮説もあるが間違いだ。歴史的に古く正統である出雲クナト国と争っているとは魏に報告できない。また魏志倭人伝研究者は、おおくは出雲王国の生い立ちやクナト国(岐の神の国)の名称や情報を十分知らない。
大山祇神(オオヤマツミ)とその娘阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)
九州平定途中にある薩摩では大山祇神(オオヤマツミ)が侵攻平定帰順の証として阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)をイニエ王(印恵王)の妻とすることに応じた(帰順というより連盟であった可能性がある)。
天孫降臨の瓊瓊杵尊(ニニギ)は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)であり、創造された神武天皇の略歴前半部分
これらの経緯が天孫降臨の日向神話(瓊瓊杵尊(ニニギ)の、笠沙(カササ)の岬(現在の鹿児島県野間岬)の物語)として残っている。阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)は『古事記』では阿比良比売(アヒラヒメ)と記される。『日本書紀』によれば、日向国吾田邑の人である。肥後(熊襲)、薩摩は阿蘇の鉄鋼床から流れ出て堆積した褐鉄鉱の豊富な産出地であった。当時大和、紀州方面への鉄供給ルートの一つであった可能性が高い。
阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)は生名(イクメ)大王(山彦)と岐須美美命を生んでいる。生名(イクメ)大王(山彦)は後世神武天皇と呼ばれるがその後若くして亡くなるイニエ王(印恵王)の遺志を継ぎ東征を主導することとなる。大山祇神(オオヤマツミ)一族は、瀬戸内海以東に発展拡大していることから連盟関係であったとも推察出来る。天孫降臨の神話は、神話の始まりを、これら筑紫からの始まりを省き結果隠し宮崎日向から始めているため理解しにくい。そうした理由は古く正統な豊国(東表国)と豊国の卑弥呼、台与とその源流であるウガヤフキアエズ王朝を日本書紀からあいまいにし消すために必要だった。また併せて出雲クナト王朝をあいまいにするためにも、必要だった。そのため、わかりにくいな神話に置き換えた。
投馬国とは宮崎都万国のこと、卑弥呼は晩年には投馬国に居していた。
宮崎 西都当時都万は地政学から見ると西から来襲する孫権の海岸からの直接攻撃にさらされない好位置だ。また東表国宇佐を筑紫側と背後から挟み撃ちする戦略的好位置でもある。宮崎都万国は魏には投馬国と伝聞記録された。魏志倭人伝には投馬国は5万戸の国と伝えられている。史跡からみてそこまでの大国であったかの検証は今もされていない。一方でこの阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)の墓と伝承される宮崎西都原の前方後円墳女狭穂塚は九州最大の規模であり、全国でも四十八位である、又この古墳を含め3世紀半ば以降で330基もの古墳が建造され古墳群としては国内最大級であることは、都万国(投馬国)が明らかに大きな国で存在し、纏向古墳の時代までも関係がつながっていたと見え、存在した証拠の一つだ。魏志倭人伝には、極南堺に卑弥呼の国のほかにさらに南に女王国があったと記録されている。このイニエ大王(印恵王)亡き後の妃の阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)を指す。また阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)が亡くなったのち、卑弥呼(姫巫女、豊玉姫)が都万国に居していた模様だ。いずれにしろ兵法戦術的には、対外的に大国であると噂を流し触れ回っていたほうが、魏など大陸から侵攻されにくい。また筑紫の伊都は魏志倭人伝にあるように、北の第1拠点として恐れられていた、放棄したわけでは無い、半島北倭との連絡軍港でもある。大分宇佐東表国首都宇佐も関門海峡が大陸からの船団攻撃では自然の要塞であり、適所のように思えるが、前記のように下関海峡は当時船の通行はできなかった。またこの時点まだ東表国(当時 魏には邪馬壹国(やまいちこく)と伝えていた)と瀬戸内海諸国を完全に制圧していない。また大和東征と考えたとき、太平洋経由と瀬戸内海経由が選べる。瀬戸内海を通れば吉備国と争いになる。紀元178年委奴国ユダヤ北朝系は太平洋ルートで大和へ逃避したことを参考にしている。これが神武勢力の半島から南下、九州を統治し、大和にあるクナト国(狗奴国)を東征する、という書記の神話ストーリーにつながっていく。
紀元230年代 遼東の公孫瓚との後ろ盾を既になくし、さらに半島帯方の公孫淵との後ろ盾を無くした東表国(当時 邪馬壹国(やまいちこく))姫巫女は、為す術がなく、イニエ王(印恵王)と手を握るしかなくなり、形だけの邪馬台国連合の女王となった。降伏である。当時は男王への女王の帰順は契りを結ぶ形であり、イニエ王(印恵王)の何人かの妃の一人となった。イニエ王(印恵王)の第1の妃は本拠地任那で設けたと推察される。第2の妃が薩摩の阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)であり、第3の妃がこの姫巫女(豊玉姫)だ。
御間城入彦五十瓊殖天皇、『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)と豊来入彦を合わせて創造の神武天皇であり、創造の崇神天皇でもある。
イニエ王(印恵王)「御間城入彦五十瓊殖天皇、『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと):崇神天皇」についてだが、日本書記で”イリヒコ”の名がつくのは、この御間城入彦と、のちに出てくる豊来入彦の二人だけだ。これらの意味は”御間(ミマ)城入彦は 北倭任那(ミマ)から来て王になった”。 ”豊(トヨ)来入彦は 東表(トヨ)国から来て(大和の)王になった”。 という意味を暗に表す(初期の編集者は知っていて、改纂したが原型情報は残した)。
海彦、山彦、豊玉姫は誰か?は明確にわかる。
イニエ王(印恵王)の九州征圧の様子詳細は、出雲富家口伝に残っている。当時戦時状況であり、諜報活動は当然行われていたためだ。イニエ王(印恵王)は任那に第1妃と息子がおり、第2妃の阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)とのあいだに後の生名(イクメ)大王ともう一子岐須美美命を生んでいる。第3の妃の姫巫女(豊玉姫)にも四人の子供がおり、重要なキーワードになる。上記 豊来入彦「生名(イクメ)大王:山彦」の義兄(海彦:彦五瀬命)、他にイナヒ、ミケヌ と豊来入姫(台与:豊姫)らだ。この四人は姫巫女の先夫の子供であるか、それともイニエ王(印恵王)との間で設けられた子供かどうかは記録が見当たらない。姫巫女がイニエ王(印恵王)の妻となった年代は換算すると50歳代前後となる。従って先夫(公孫瓚)の子供である。第2妃の阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)とのあいだに生まれた生名(イクメ)大王が、結果イニエ王(印恵王)の跡を継いだことになるが、3人他の異母兄弟の間であり、そう簡単に決まったわけではない。このあたりは日向神話に複雑に記述がある、まず海彦山彦伝承がこれら兄弟間の争いの物語だ。若い山彦(生名(イクメ)大王)は卑弥呼(姫巫女)の年長の義兄の海彦(五瀬命)からねたまれた。これが海彦山彦伝説となる。また一時任那(高天原)あるいは印恵イニエ大王の九州第一拠点岡水門に3人そろって赴いていたと思われる記載個所と伝承物語が見受けられる。そこにおいても異母兄弟間の争いが母である阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)も巻き込んだ故事伝承として残っている。具体的には海彦と山彦が任那(または岡水門)で第1妃の義兄の画策した蟄居計画を阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)からの手紙で知り、海彦と共謀して山彦が逆に義兄を刀(弓)にかけた、という悲しい物語だ。それは真実の伝承であると見える。この事件を機会に兄海彦は義弟山彦に王継承を譲り、伝説の記述となった。海彦(豊玉姫(卑弥呼)の長男)は古事記の神武天皇の兄で、ウガヤフキアエズとタマヨリヒメ(豊玉姫)の第一子と記述される。古事記では五瀬命、日本書紀では彦五瀬命と記載される。詳細は省く。
これ以降、
邪馬台国、古事記、日本書紀の神話と、魏志倭人伝の実録の世界に入っていく。
ここで魏志倭人伝の記述で注意しなければいけないのは、当時倭は、親魏物部勢力であろうと、いつか敵対するかもしれない魏にすべてをさらけ出していると、思ってはいけないということだ。曖昧にしたり、いつか攻められないようにわざと隠したり、だましたり、都合の良いように伝えるのは兵法として常套手段である。魏志倭人伝に記載されていることが詳細に正確で正しいとは限らない。
邪馬”台”国は存在しない
魏志倭人伝で記録される邪馬台国の卑弥呼は、巫女であり、天に仕え当然結婚していない独身形態で、若い男の従者が常に対応していると記載されている。実態をつなげて推察すると、”邪馬台国”は”邪馬壹国(やまいちこく)”が適正な場所表現である。卑弥呼は姫巫女で豊玉姫と神話で呼ばれ、若い時は公孫瓚あるいはその系統と思われる夫が居り、月をあがめる月読の尊の系統を継ぐウガヤフキアエズ王朝の女王だった。”邪馬台国”という表現は後世の拡大解釈あるいは誤読だ、魏志倭人伝には表れない国名だ。”邪馬壹国”の女王と三国志に明記されている。原本の”壹(イチ)”を似た”臺(タイ)”の転記ミスをし(ここまでは魏志倭人伝より後の宋で史書を集大成した人々の誤り)、さらに”台”を略字で当てはめたようだ(江戸時代の日本での解釈)。この背景には、後年の中国史書に出所場所がわかりにくい”臺国”という国名が歴史資料に現れることも誤解しやすく関係している。(臺国は近畿大和の初期の名前だ。)したがって邪馬壹国(やまいちこく)は宇佐、遠賀川、有明領域を拠点とする古き東表国(豊国)と宗像海人族の領国の2,3世紀の融合国家であったと言える。公孫瓚系の提携関係者であったことは公孫瓚と争った魏には報告できない。生涯独身であったと報告された。男の従者とは監視のため夫イニエ王(印恵王)の御子生名(イクメ)が寄り添っていた、と推察される。魏志倭人伝に現れる邪馬壹国(やまいちこく)の記述は、姫巫女の人生のかなり後半である。イニエ王(印恵王)は姫巫女(豊玉姫)を妻に迎え連合を構築したのち九州で若くして亡くなって居ることから、魏志倭人伝記載当時は独身(単身)であったかもしれないし、一説には夫イニエ王(印恵王)亡き後その息子生名(イクメ)王と戦略提携上止む無く再婚姻したが公表していない、という説もある。天孫降臨神話では若き山彦と女王豊玉姫は結ばれている。そうであったのだろう。姫巫女の4人の子供(豊来入彦の異父兄海彦と豊来入姫(台与)ら)は当然人質として都万または任那、あるいは岡水門に拘束されていたと推察される。卑弥呼は晩年には、極南界にあると表現された宮崎都万国(投馬国)に居して神武東征を迎える。
紀元230年代の動きが 魏志倭人伝に記載されている。
卑弥呼が連合していた北倭の北帯方の公孫淵の滅亡と前後して卑弥呼があわただしく敵であった魏に朝貢を試みている。
*公孫氏滅亡が、邪馬台国の卑弥呼が帯方郡(魏)に使を派遣することにつながった、との見方が有力である。これは当時の公孫氏政権が事実上の自立状態にあり、邪馬台国をはじめとする東方諸国の使者を遼東に留めて、自らへの朝貢をさせていたため、滅亡により陸路が通じるようになったという見解に基づくものである。倭から見れば、魏の侵攻を防ぐ盾となってくれる国である。
なお、『魏志倭人伝』においていわゆる倭国の乱(『後漢書』の倭国大乱)から卑弥呼の遣使まで倭国に関する記述が途絶えているが、この期間は公孫氏が遼東で自立していた時期と重なるため、根拠に挙げられている。卑弥呼の帯方郡への遣使は、ちょうど公孫氏滅亡の直前である景初2年6月であると魏志倭人伝に記述されている。しかしこれについては、帯方郡など遼東での戦乱最中時の遣使は困難である(また公孫氏はまだ滅んでいない)として、翌年の景初3年ではないかという説が主流である。ただし、邪馬台国が遣使2人で朝貢物の奴婢10人布2匹2丈と、かつての奴国の貢物奴婢160人と比べても粗末なものであったのに、魏が邪馬台国を厚遇したのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績を認めたからだという観点から、公孫氏政権滅亡直前のこの時期の遣使が正確であるという説もある。
日本の『新撰姓氏録』では、帰化人系の氏族の一つである常世氏(もと赤染氏)は、燕王公孫淵の子孫だと称している。 (参考: )
遣使2人は但馬出身の田道間守(タジマモリ:ダジマ)と紀州出身の十市瓊入姫(トイチニイリ:トシグリ)と出雲口伝に残っている。ダジマが難升米(ダジョマイ:ダジマ)、トシグリが都市牛利(トシグリ)と魏志倭人伝に伝聞記述された。新羅系但馬出身の田道間守はその所以から大陸の言葉が堪能だった。また後の神武東征に味方した紀州が卑弥呼のウガヤフキアエズ王朝と連携していたことがここから伺える。
塩土の翁はアマノヒボコの末裔タジマモリ(田道間守)
東征の以前、東方に良い地があると神武天皇(イニエ大王)に進言した”塩土の翁”という不詳の人物が神話に現れる。”土”は国あるいは地域を表す。製塩の盛んな土地の翁であり、出雲口伝では 但馬のアマノヒボコの末裔タジマモリ と明瞭に伝えられている。当時北陸但馬から敦賀周辺は製塩が盛んで良質な塩を半島に交易していた記述が記紀と半島歴史書に残っている。
神武東征が日向(都万)から宇佐を経由し、岡水門に途中滞在する理由
紀元247年3月24日夕方九州で皆既日食が起きた。これが卑弥呼の天岩戸に閉じ籠る神話となった。日食は翌年紀元248年9月5日にも再度起き、不安な時世を助長することとなった。
紀元247年 10月5日 生名(イクメ)大王と卑弥呼が共に都万(宮崎 投馬国)を出立し、東征が始まり、卑弥呼(姫巫女)の都宇佐に向かう。その後イクメ大王が岡水門に一年滞在したという説があり、それと出雲口伝を総合すると紀元247年 出発となる。
紀元247年 魏志倭人伝に、卑弥呼(姫巫女)から狗奴国(出雲クナト王国)と争いが始まった、魏に応援を要請した、と記述が残る。
魏志倭人伝と出雲口伝とは整合する。出雲口伝では 東征は2派にわかれ先遣隊としてアマノヒボコの末裔タジマモリは都万国、東表国(邪馬壱国)宇佐から一部勢力を率いて日本海側を出雲クナト王国(狗奴国)平定に向かった。
出雲王国の終焉
この新羅出身のアマノヒボコの末裔タジマモリは、東征で2派に分かれた内の先遣隊を率いており日本海側を出雲クナト王国(狗奴国)平定に向かい、そこに吉備王国の連合、また出雲内部の傀儡もあり、大きな争いの結果、歴史の永い出雲王国を終焉させた。この経緯を日本書紀では出雲の国譲りとしてあいまいに記述した。理由は、この事件の460年後の日本書記編纂当時天皇皇后系統も含め新羅出身関係者が多く、触れたくなかった。この背景理解が日本書紀理解のポイントと言われる。
卑弥呼と神武天皇(名は後世に命名:実際はイニエ王、イクメ王) は連合を組んでいた。
紀元248年 12月 冬の西風に乗って記紀に書かれる神武東征が宇佐から出奔する。イニエ王(印恵王)は既に九州で生涯を終え、結果イニエ王(印恵王)の跡を継いだ阿多津姫(コノハナサクヤヒメ)とのあいだに生まれた生名(イクメ)大王が、姫巫女(東表国当時邪馬壹国(やまいちこく)の卑弥呼、豊玉姫)を信仰の象徴に担いでの神話の筋書きとなる。そのため東遷は宮崎日向(都万国)から東表国の首都宇佐を経由して行われる。また筑紫伊都国拠点からの邪馬壹国(やまいちこく:東表国)平定の前線拠点であった遠賀川領域岡水門にも11月9日寄っていることなどは、このつなぎですべて説明できる。12月17日安芸国埃宮に寄港する。姫巫女は248年その安芸宮島で老齢と病気のため生涯を終える。そして後に宇佐八幡神社に祀られる。魏志倭人伝でこののち男王が立って世が乱れるとの記述は、この生名(イクメ)大王(と東表国、つまり物部/豊国連合)の東征とその後を示している。(出雲富家口伝)
これらの経緯から記紀ではイニエ王(印恵王)を天照大神(姫巫女)を祀リ御霊を大和に遷座した「御間城入彦五十瓊殖天皇、『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと):崇神天皇」と呼び、日本書記で”イリヒコ”の名がつくのは、この御間城入彦と、生名(イクメ)大王が豊来入彦であり、この二人だけだ。これらの意味は”御間(ミマ)城入彦は 北倭任那(ミマ)から来て王になった”。 ”豊(トヨ)来入彦は 東表(トヨ)国から来て(大和の)王になった” という意味を暗に表す(初期の編集者は知っていて、改纂したが原型情報は残した)。二人を総合して神武天皇と創っている。
卑弥呼の娘台与(豊:トヨ)は豊来入姫であり豊姫であり、また月読みの尊の系統
そして、記紀で言う豊来入姫が卑弥呼の娘 豊(魏志倭人伝:台与トヨ、後に記紀では豊姫と記述される)であり、卑弥呼の亡くなったのち魏に認められた2代目の姫巫子女王(宗教上の)だ。東征の主導者生名(イクメ)大王は望んだにもかかわらず、魏から正当な王として認められなかった。これが尾を引いて内紛争いの火種となる。天照大神とはこの東表国ウガヤフキアエズ王朝の豊玉姫(卑弥呼、姫巫女)とその娘であり2代目卑弥呼(姫巫女)の台与(豊、豊姫、月読みの尊系統)の二人をつないで創られている。
この東征船団は翌年またはよく翌年3月6日吉備国高島宮に寄港。三年間とどまった。これは東征の準備期間でもあるが、卑弥呼死後、魏から台与トヨが姫巫子女王と認められるのに要した期間だ。近畿の懐柔傀儡策もこの間行われた。また別軍が日本海を出雲平定に向かっており、その結果を待ち同時に近畿大和へ参入する策だ。
この経緯から、安芸国、吉備国は、連合であったと推察できる。占領して、さらに東へ進むには、駐留軍が必要で、戦力が分散される。また反撃があれば、東西から挟み撃ちにされる戦術上の懸念がある。そのような無謀な東征は行わなかっただろう。安芸はその名前から姫氏系統、吉備は出雲と争ったフトニ王の後裔だ。
紀元252年2月11日 イクメ大王は吉備国から冬の西風に乗って東に向かった。
以降は記紀に書かれる神武東征の様子となる.
記紀ではこの紀元250年代のイクメ大王東征を紀元前160年頃の天の村雲の時代にはめ込んでいる。上陸の描写も紀元前当時一般的であった河内潟海流潮流を利用した交易移動の様子を記述した模様だ。詳細は触れないが、上陸開戦の描写は戦術的に言ってあり得ないほど甘い。後方は退避ルートが狭く、沖に隠れ待機していた船団に後ろに回られたら後退ルートを絶たれてしまう。また狭い河内潟で四方を囲まれ、また上陸を途中阻止され時間を稼がれると、引き潮によって船が座礁し半日動きが取れなくなる。これでは弓や火矢で狙い撃ちされる。吉備で3年滞在していれば、その情報は大和側では随時把握し戦争の準備も戦略も出来ているし、当日の移動状況も諜報活動で逐一把握されていただろう。狼煙や早風(飛脚あるいは忍者)という手段も当時使われていた。従って注意深く東進していたはずだ。常套手段による征討開始は無理だろう。戦術的には当時不安定だった大和内部を分断し、味方につける傀儡が王道だ。アマノヒボコの末裔タジマモリや近江国額田彦(後に額田宿祢;魏書ではヌカタイ)、紀州の姫家(紀氏)の末裔竹内太田根(後に宿祢)、そして出雲王国内部の分断がそれらだ。そのために時間をかけていたともいえる。
そして、記紀にあるように、東征がおこなわれる。
記紀の神武東征で戦ったヤマトのナガスネヒコは、実際は第10代にあたる中曽大根彦:ナカソオネヒコ(大彦命)
記紀の神武東征で戦ったヤマトのナガスネヒコは、実際は第10代にあたる大彦(布都押之信:または富ノ長脛彦:ナガスネヒコ:中曽大根彦:神武東征時代の磯城王朝王:布都は拠点の地名、曽大根は育った地名、富(登美)は出雲王家の苗字であることを示す)であり、争いの後敗退し滋賀琵琶湖エリアから当時クナト国の領域である北陸へ退却した。別のルートで伊賀など東部へ退却する人々は大彦の長男武渟川別(たけぬなかわわけ)を含め、東方の伊勢、尾張、三河を形成していく。さらに後世伊豆、関東武蔵へ広がり、そのまた構成には東北へ後退しアベ氏と呼ばれるようになる。
イクメ大王に忠誠を誓い、従わないナガスネヒコを成敗したと記載された宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)は実際は大彦の妹御炊屋姫命(ミカシキヤヒメノミコト)と 天香語山の子孫(天皇系)との間に生まれた皇子だ。御炊屋姫命(ミカシキヤヒメノミコト)はイクメ大王の何人かの妃の一人となる(ある意味人質だった)。
魏志倭人伝ではこの男王(イクメ大王)が立って、混乱が始まり、その後台与(豊姫)が女王となり落ち着いた、とある。
紀元266年 大和に居する女王台与(豊姫、倭姫)は魏から変わった晋に朝見する。東征の人々は親魏であり、その後ろ盾で大和に至ったが、魏が晋に敗れ状況が変わった。
しばらくはこの膠着があり、その後台与(豊姫)は再び混乱に巻き込まれる。
その後豊姫(月読みの命)が伊勢神宮近くに祀られる由来
祭祈上も、魏からも倭国王と認められた台与は、大和で人望が高かった。実質的な統治者生名(イクメ)大王からは煙たがられた。また台与は魏が晋に敗れたことから後ろ盾が無くなったのも起因する。
台与のその後は豊姫として伊勢神宮の別宮倭姫宮と月読宮に祀られているが、実際は身内の生名(イクメ)大王にねたまれ、裏切られ追われ各地を転々とし、最終刺客により伊勢で亡くなった。イクメ大王は親晋の立場を見せるために、親魏時代の象徴でもある台与を亡き者にする必要があったのかもしれない。イクメ大王は記紀では崇神天皇と存在しない天皇名を名付けられた。崇神天皇時代御霊が祟って鎮座する社を徘徊し最終伊勢神宮に祀られた天照大神の御霊として架空の物語に築き上げられている。実際崇神天皇(イクメ大王)の時代大和で3年間飢饉疫病が大流行したことが記紀で伝承されている。豊姫(姫巫女台与)の祟りと皆が思った。祟りは当時恐れられ、恐れ祀る(祟りを儀式で封印する)のはよく行われていた。祟る天照大神の御霊の遷座の記紀記録は実際には、豊姫が(イクメ)大王の追手から逃れるため、かつての敵国クナト系の国を頼って各地へ逃避し志摩の伊雑宮(磯ノ宮)から最終伊勢に至り庇護されたルートだ。これらは狗奴国(クナト国)東征時代が末期を迎え、奈良飛鳥が舞台での時代の話に移っていく時の出来事だ。
この混乱を記紀では触れたくなかった。簡素に省くためイクメ大王の大和での前半を崇神天皇と存在しない天皇名として名付けられた。大和での後半もまた垂仁天皇と存在しない天皇名を創った(出雲口伝)。”垂仁天皇”は、またはと併記で”イクメ大王”と古事記、日本書紀とも記載され、矛盾を繋いでいる。この意味は、垂仁天皇は天皇ではなく皇子で別に存在する人物で、その人物に重複させた。長脛彦は、沖縄ではナカソネ中曽根が古くからの民族であるので、こちら系統と混同した起源仮設提唱が多く、記紀解釈が混乱し難しくなってしまっていた。
東方へ、北方へ退却と開拓が始まった
これを経緯にまず出雲クナト系民族(と当初の海部、尾張系融合民族、さらに鴨(加茂)氏、富氏、阿部氏)の東方への退却、移動、開拓が広がっていく。東方は既に紀元前から出雲クナト系民族の開拓は進んでおり、またそれらよりもっと紀元前数百年以前のクナト民族と融合した新縄文民族が居り、彼らとも合流していった。安倍氏はその後、坂東の安東氏、秋田氏、奥州藤原氏へと繋がっていく。
京都の鴨神社は鴨氏を名乗った出雲系統由来名であり、愛知(鮎地)には尾張、海部(カイフ、アマ)郡だけでなく三河には”加茂”郡がその由来で地名となった。その加茂郡にあった愛知三河豊田市は以前の市町名は三河挙呂母町であり、古事記にも”三川の衣”という地名で表れる古い地だ。養蚕が盛んであったことを想起させる。その豊田市北部の猿投山は、12代景行天皇の時代に記述が現れ、景行天皇が愛玩した猿を機嫌が悪い時投げたことから由来すると書かれているが、ちょっと無理がある。猿投”サナゲ”は衣に関係する蚕の”サナギ”から由来すると出雲富家口伝に残る。確かにさなぎが横たわっているような風貌の山だ。”サナギ”は銅鐸の初期の呼称であったという話でさらに驚く。つまり早い時期からの出雲系(と海部系)の人々の移住が愛知三河加茂にはあったようだ。またヤマトタケルやその兄が尾張や三河猿投山に関係して登場する。ヤマトタケルは関ケ原養老伊吹山で戦いの結果三重で亡くなっている。誰と戦ったかが記紀には記載されていない。ヤマトタケルの亡くなる前に、兄も戦いで亡くなった模様だが(風土記)、彼らを鎮魂する意味の猿投神社が、その後の仲哀天皇時代に祀られている。また豊田市矢作川東部には野見町が在り、そこには野見山があり、その野見神社では古くから相撲が奉納されている。出雲出身の野見宿祢(相撲の提案普及で有名(古事記記述))は第11代垂仁天皇の時代に古事記で記述が現れるが、その子孫の移住がここもあったと地元に由来が残っている。鴨川(加茂川)やアベや布津(フツ)という地名人名もそういった由来だ。
そののちイクメ大王に追われれ、東方へ東表国系(豊国)の人々が広がり”豊”という地名を各地に残していく、上記三河の例では豊川市、豊橋市、豊明市が事例だ。そしてその後物部系の人々がさらに広がっていく、秦由来であるので、羽田、和田、羽根田なども地名、氏名となった。稲荷神社も秦氏由来だ。また同じ三河の事例になるが、秦氏の移住発展の結果由来の象徴である稲荷神社の総本山伏見稲荷に次ぐ豊川稲荷が建立された。秦氏と豊表系民族の融合の象徴のような地名と神社だ。人々が最終共存し融合していった様子が見える。さらに後世紀元6世紀ころ八幡神社が全国に広がっていく。東表(豊)国の中心宇佐の宇佐神社が八幡神社の総元だ。八幡は卑弥呼(姫巫女)が魏から授けられた八本の御旗(幡)が由来の名前だ。宇佐神社に長い歴史があるのはこの理由による。
これらの人々の移動移住拡大は最終日本民族として融合していった。もちろん縄文文化とも融合していった。当初は争いがあっただろう。皆が平和な時代を望んだから、それを乗り越えていった。古代調査で遺伝子DNA鑑定が日進月歩で進んでいて、それらが徐々に明瞭になっている。また土器紋様もそれとセットで文明系列を調査する重要な情報で新しい事実が徐々に時代観を変えてきている。一例で関東平野での紀元後の大規模遺跡で小田原が大きな拠点となっている。そこで発掘される土器紋様では大部分が関東縄文土器で、それに弥生系紋様土器が混在しているとしている。縄文土器を使用していた人々はその数千年前から日本列島に在来するいわゆる縄文人と想定している。その根拠は最近DNA鑑定で3000年前の東北縄文人のDNA鑑定ができたことから、これを在来縄文人として解釈している。しかしクナト民族は3500年前に青森に移住し、南下していることから、3000年前の縄文人を1万年前の縄文人と同一と認識するのは誤りだ。クナト民族がインド(インダス)から青森に移住し、文化を伝来しながら在来縄文人と融合し、そして南下したことを加味すれば、その500年後つまり3000年前の東北で発掘される縄文人遺骨はクナト民族の文化DNAを融合した新縄文人と言える。またこれは日本列島すべての東方での融合クナト族のDNAでもあり、つまり紀元後関東を構成していた民族は当初クナト民族(新縄文人)であり、それに弥生文化を持ち込む東表国民族あるいは秦、物部民族が一部融合したといえる。日本人のDNA調査で東アジアでは何故かチベットと日本とジャワだけに検出されるYAP遺伝子が存在し、理由が説明出来ていない。それはインド(インダス)から紀元前1500年頃に年月をかけず、日本に大挙移動した北方からのクナト民族(シュメール民族)、さらに南方経由の九州ウガヤフキアエズ王朝(シュメール民族)の痕跡をまさに証明している。
崇神天皇の4道将軍派遣は、後世創造された。
神武東征に戻ると、崇神天皇(イクメ大王)は東征後4道へ将軍を派遣したと記載されるが、当時イクメ大王にはそれだけの余力はなかった。4道将軍は、当時それらの地域で既に力のある豪族あるいは地域の王名、あるいは退去していった王命であって、記紀は創作した。東征途上にある吉備、出雲は平定されていた(吉備は連合で、出雲は平定終焉)。 (出典:出雲富家口伝)
北陸へ退却した第10代大彦命(中曽大根彦)は北陸、越の経済圏の繁栄を築き、後の継体天皇排出の基盤をつくった。
大彦命を北陸に派遣という記載は、上記北陸に退却した大彦命を当てはめている。北陸、信越には、紀元前から拡大していった出雲クナト王朝系の文化圏があった。東出雲の紀元前210年頃の少名彦(氏名:事代主)の妻ヌナカワ姫がその息子建御名方富彦と実家の越後へ戻り、越後を拠点とし日本海方面と、戸隠、長野、諏訪信州へと国を発展させ広がっていた。彼らとは古い血縁があり協力して経済圏を強めていった。
後の第26代継体天皇(諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(ホドノミコト))は、請われて天皇を継いだが、当時突然北陸に拠点を持つ人物へとつながる経緯が不明で、記紀解釈ではその出自が定まらなかった。実態は、北陸へ退却した第10代大彦命(中曽大根彦)の子孫だ。
東海に遣わした武渟川別(タケヌナカワワケ)とは前述した東に退却したのち弥生経済圏を拡大する大彦命の息子だ。
そして後に安部氏系統となっていった。又のちに愛知尾張ではヤマトタケルを輩出する。武渟川別(タケヌナカワワケ)と大彦命の将軍二人が会津で合流したという記紀記述は、子孫が血縁関係であり、北へ東へ拡大して融合していった経緯を指している。また建御名方富彦は記紀で神武東征以降東方を平定する人物として随所に登場する。実際には上記のように紀元前220年頃の出雲王国の出身で母とともに越後に移り東方を開拓した。東征物語での登場は記紀の創造だ。(出典:出雲富家口伝 他)
丹波に遣わしたとされる丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子、彦坐王の子だ。なお、古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。つまり、もともと彼ら一族は丹波を拠点とする家系からの出身で、イクメ大王の時代に大和に居していた。当初東征勢に参加したが、その後丹波道主命は身の危険を感じて丹波、因幡に逃避したと出雲口伝で伝承される。
母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)、つまりイクメ大王の妃となった。景行天皇の外祖父に当たる。
埼玉稲荷山古墳から発見された鉄拳に大彦命が大和の王であった意味合いが記載されている
近年埼玉稲荷山古墳から発見された鉄拳にしめされた王オワケノオミの系譜は、大彦命が父祖との文が明瞭に刻印されていた。大彦命が大和の王であった意味合いになる。
神武東征後は、混乱が続いた。
出雲富家口伝によると、イクメ大王東征以降しばらく大和は大混乱の時代となる(倭ではない)。魏志倭人伝では男王(イクメ大王)が立って、混乱が始まり、その後台与(豊姫)が女王となり落ち着いた、とある。しかし実際はその後もさらに大混乱時期だった。イクメ大王が魏に報告しなかった。魏も末期となり晋との戦いの最中であり交流が途切れた。前に述べたように、豊姫はイクメ大王から追い落とされ、亡くなり天照大神の神話とされたが、具体的には、さらに以下の経緯が続く。
出雲国を終焉させた部隊を主導した但馬タジマモリは、その後のイクメ大王からの信任の低さに不満を持ち、アマノヒボコの末裔らの但馬国が紀元150年頃南下し平定していた播磨周辺勢力と合流し、さらに豊国勢力らと両者でイクメ大王へ兵を向けた(紀元270年頃)。イクメ大王はなんと、出雲の残存兵力に支援を要請した。これに出雲残存野見家がタジマモリへの怨念から応じてしまった。結果タジマモリ集団は前後を挟まれ、敗退し小豆島へ残党が追いやられ、また豊国勢力は東へ退却し、決着がついた。野見宿祢は出雲から出兵の帰路、吉備で料理に毒を盛られ亡くなってしまった(吉備には野見宿祢の墓が残っている)。憎しみが憎しみを生む悪循環の時代だった。記紀はこれらの出来事を、崇神天皇時代にアマノヒボコが播磨に土地を求めて到来し争った逸話へ単純にして変え、また垂仁天皇が能見宿祢を重用し、相撲を行い勝ったと創造し、あいまいな逸話に修正している。記録に残したくなかった。一方ではこれにより、奈良飛鳥での出雲系統の人々の復活が徐々に始まった。大和の民族バランスはまたもとに戻っていった。これらの出来事は、記紀では伏せられた。
40年後 景行皇子(天皇)は自ら九州に戻って行った。
大和はイクメ大王の後、垂仁天皇,景行天皇と記紀で記述される。
イクメ大王は出雲とゆかりの深い葛城のヒバス姫を妃として迎えるなど取り込みを図った。記紀では”垂仁天皇またの名をイクメ大王”がヒバス姫を迎えたと記述する。出雲口伝では記紀はイクメ王が創造の崇神/垂仁に分割記述される経緯になったとする。ホツマツタエでは垂仁天皇は、イクメ大王と敗退した第10代大彦の娘であり武渟川別(たけぬなかわわけ)の妹ミマキ姫(正妃ではない)との間に生まれた皇子とする。つまりイクメ大王の正統ではないが存在する。また景行天皇はその垂仁皇子(天皇)と開化天皇の系統孫皇女との間に生まれた皇子とする。景行(天皇)は飛鳥というより、吉備、播磨など西方を拠点とする人物(皇子)であった模様だ。ホツマツタエの伝承がより具体的で実際だろう。記紀では崇神何年に垂仁天皇が何々をしたとの記載があり、不可思議な記述だ。実際のイクメ大王の行動を垂仁天皇(またの名をイクメ大王)の行動として分割したようだ。
イクメ大王は出雲とゆかりの深い葛城の道主の娘ヒバス姫を妃として迎えるなど取り込みを図ったけれど、その父道主もまたイクメ大王に追われ丹波から因幡へ敗走している。その後はやはりイクメ大王のこれらの経緯により信望が広がらず、景行(天皇)の時代は徐々に衰退し、物部系統は出雲系、尾張海部系、新羅系と融合していったようだ。もともと尾張海部系は、秦系徐福(と出雲)の融合系統であり、物部系も秦系徐福系統と言える面では既に融合していた面もある。景行皇子(天皇)は経済的な理由で、かつて経済基盤のあった九州平定に自ら戻っていく(出雲口伝)。このころ大陸は魏から晋にかわり、九州もその影響で統制がとれなくなってきたことへの危機感も要因だ。その後大和(西方)に帰ってきてからすぐに東国遠征に向かう、とも口伝には記述がある。九州から戻ったのは関係する別人だった可能性が高い。記紀はこれをヤマトタケルの熊襲遠征と東国遠征とに創造した。天皇が大和を長期離れるというのは記紀編纂当時は尋常とされる行動ではないためだ。記紀で記述できない。ヤマトタケルは山人(山彦系統つまり大山氏、姫氏、熊野氏、球磨熊襲系統)と海部尾張系統が融合した愛知の王族の名前だ。ヤマトタケルは熊襲征伐で流麗な女子に変装して祝いに忍び込んだと記述される。華奢な体格でなければそうは出来ない。しかし一方で同一人物のヤマトタケルは伊勢で兄を厠から出てきたところを捕まえて力ずくに殺してしまったという屈強な人物像でも描写されている。両者の描写が同一人物とは思えない。
では垂仁皇子(天皇),景行皇子(天皇)の時代の奈良飛鳥地方の王は誰か?
イクメ大王とヒバス姫の間に生まれた娘皇女は大和姫だが、彼女も飛鳥ではなく丹波で生まれ育った。皇子が見当たらない。どうも跡継ぎに恵まれていなかったようだ。垂仁皇子の皇子がホムタワケで、逸話が詳しく残っている。”垂仁皇子またの名をイクメ大王”と”崇神天皇(イクメ大王)”が同一であるとする出雲口伝で考えれば、皇子はこの不遇のホムタワケ一人であったことになる。あるいはもっと言えばイクメ大王(崇神天皇)は晩年失脚した可能性がある。記紀では崇神天皇、垂仁天皇時代は、争いとその結果の祟りの逸話や、それに通じる出雲への回帰の話が多い。記紀編纂の紀元700年代から当時紀元200年代を振り返った反省の意味合いでもある。
大和では争いの反省から纏向で共同連合(大和)が運営された。
景行皇子(天皇)は大和西方を拠点とする王族で、大和では実際存在感は薄く、さらに景行天皇(皇子)がいなくなったため、大和では、平和を願い連合が運営され環濠の無い纏向遺跡が残った。纏向遺跡では、東海で広く広まっている器物が多く遺跡から見つかっている。これを見ると、東国に退却した人々が、再び大和地域と繋がる関係が早々に戻ってきたことをうかがわせる。
また纏向は、当時宗教儀礼が盛んで、三輪山で月読みの尊を敬うために各地から集まるための宗教上の交流の拠点でもあった。三輪山は本来でいえば日本縄文古来の大物主(蛇の姿をした古来神)を敬う宗教上の拠点だった。その後出雲クナト族由来の鴨氏、富(トミ)氏の移住時代(紀元前100年代から紀元200年代)では、三輪山から拝むその東の鳥見(トミ)山での幸ノ神信仰儀礼の時代を経て、当時は後世命名した天照大神(月読みの巫女)を崇める時代へと移っていた。そしてその後は、再び太田根子が、日本縄文古来の大物主(蛇の姿をした神)を敬う聖地として、そして出雲由来の神々を敬う地として、また再び現在の姿へと戻って行った。
”大和”は”山人”と”大和”の両方から由来する。”山人”は中国史記に”山臺”と記述され、後に”臺国”とも記述された。
過去の歴史に戻りますが、海彦、山彦という神話の言葉にも関連し、海彦は航海術に優れ交易を担う人々を象徴し、山彦は製鉄、鉱山開拓を担う人々を象徴している。つまり山彦は山人(ヤマト)だ。山人は初期の九州(南倭)の国東半島、肥後球磨薩摩から徐々に東の瀬戸内海、四国にも広がり、そして広大で鉱物の肥沃な土地、つまり葦の根元に渇鉄鋼が多量に堆積する河内湖、奈良湖周辺という現在の大和地域に移動定住してきた。北倭、南倭に匹敵する大きな経済圏が徐々に出来上がった。出雲口伝の伝承内容から、この時期は紀元前200年には既に大和北部河内湖周辺に形作られていたと推察する。また四国構造線上の吉野川(よしのがわ)に沿って東に拡大移動した人々も紀州紀ノ川沿いに紀伊半島および飛鳥の奈良湖周辺にも拡大していく(紀ノ川(きのかわ)はかつて吉野川(きのかわ)とよばれていた)。そしてその後出雲からの人々、丹後からの海部系の人々と協力してさらに発展拡大繁栄していく。
景行天皇以降の時代に戻ると、九州南倭では、かつてイニエ王に裏切られたウガヤフキアエズ王朝がある。その豊姫の末裔は、忍んで裏切られたイニエ王の末裔(息子)の景行皇子と連合し、仲哀皇子(天皇)を輩出する。ウガヤフキアエズ王朝再興の思いは強かったのだろう。一方大和では紀氏源流で、また新羅王族と深い血縁のある但馬出身の紀州息長垂姫:神功(皇后)が朝鮮半島の戦乱の影響を乗り切るため、再主導したいと考え、新羅統治権利の血統を主張、復活獲得する目的で仲哀天皇と連合ししようとした(王と妃、と記載されている)。仲哀天皇は躊躇し、そしてその場で亡くなったと不可思議な記述だけが残った。そして神功皇后と最終連合する宇佐ウガヤフキアエズ王朝勢力は半島へ出兵する。そして新羅正統である確認とその意味の貢ぎ物を受け取る権利を得た。大和飛鳥南の紀州の発展が始まる。また併せて新羅系の人々は播磨や南近江大津周辺で栄えていった。大和は秦物部宗像系統(海人)、出雲クナト系統、紀氏大山氏系統(山人)、ウガヤフキアエズ王朝系統と新羅系統の連合融合国家であった。徐々に大和の姿が形作られていった。
以下 いつか次回
当初の目的であった紀元前後とその後紀元300年まで、繋ぎました。神武東征とその後に至るまでの時代です。小説として描きましたが、出雲富家口伝として継承される歴史情報と周辺情報、特に契丹北倭記を総合し矛盾無く詳細に繋いでいます。それにより天孫降臨と神話、魏志倭人伝、出雲口伝、古事記のエッセンスが時系列、地理的(アジア、列島)、背景的(中国歴史との連続性)に矛盾なくつながりました。個人的には史実に最も近いと確信しています。こののちの伝承も出雲富家口伝には詳細に記録が残っていますし史跡や記録も増えています。時間を見て整理してみたいと思います。
これまであぶりだし時系列で整理しつなげた、重要な事例を列挙します
・かつて紀元前1500年頃は、シュメール文明の言葉や文字が、世界中で広まっていた。彼らは航海が得意だった。鉄鉱脈を探しながら交易を広げていた。日本にも到達した。むしろ日本は鉱物資源の豊富な列島だった。日本は島国であり、古代のシュメール文化が上書きされず、いまも色強く残った。世界でも珍しい。古代の東表(豊)国文字/アヒル文字が使われていた。伝承は口伝で残された。
・シュメール人は、日本列島到来ではまず九州国東半島に到達し広がっていった。”アソ”は”火を噴く山”のシュメール語だ。日本は世界でも有数な鉱物資源国であり来る理由があった。国東半島は阿蘇火山の鉱脈が露出していた。当時航海しながら赤い山を探すことで砂鉄鉱脈を見つけることができた。日本列島の東方も砂鉄を探して航海し、鹿島まで至った。九州鳥栖あたりから行った人が、鹿島の神栖にある息栖神社に上陸し命名した。その後歴史のどこかで、鳥栖が息栖へと当てはめた漢字を誤って転記した。
・一方で出雲は、シュメールからインダスへ広がった文明の中からクナト王一族が紀元前1500年頃、北東へ大挙移動してアムール川から樺太北海道を経由し青森三内丸山遺跡周辺に南下し、縄文人と共存、その後徐々に日本海を南下しながら紀元前6世紀建国した。サケ漁で冬生存できた。荒地で育つそば栽培技術も持っていた。九州へ到達したシュメール人とは別派であった。
・因幡、伯耆国も起源は出雲王国と同様に古い、殷周建国の姫一族が南下し列島に至った。これらの人々もシュメールを源流とする。西方オリエント宗教を源流と推定される道教の霊山山東半島の泰山(太山)の発音が大山となり、崇拝の霊山となっていった。
・九州 大分周辺を豊国(豊前、豊後)と呼ぶ名残が今も残っている。そこはかつて東表国(トヒョクニ)であり、豊国(トヨクニ)と後世漢字をあてはめた。月を信仰し、うさぎの由来である宇佐を首都とし、したがって月読の尊の系統であり、それはウガヤフキアエズ74代王朝として続いた。東表国は、北倭、南倭を総称し、永く半島から九州にかけての国だった。
・熊襲は当初朝鮮半島北部を指し、その後 航海南下により熊本熊襲(球磨、肥後)へ移った。阿蘇の豊富な鉄が100万年前まであった人吉湖に堆積した鉄の有数な産出地であった。呉人も合流した。河童とは、河に堆積した鉄鉱石を潜って採取する人々を見て付けられた。いずれも紀元前数百年前の話だ。
・秦の始皇帝時代 不死の薬を求めて蓬莱へ渡航した徐福の伝説は実際には、秦の半島の敵国を戦略的に脅挟するため当時の出雲クナト王国をまず傀儡凋落するため派遣された。その後移民してきた秦系の人々によって不死の薬を求めた伝説に置き換えられた。
・卑弥呼は東表国(その後当時邪馬壹国(やまいちこく))の姫巫女であり、女王である。神話の豊玉姫のモデルである。呉人を源流とする宗像海神人族を介して当初中国山東半島公孫瓚、その死後半島帯方燕の公孫淵と連携していた。邪馬壹国(イチ)を似た臺(タイ)の転記ミスをし(ここまでは魏志倭人伝より後の宋で史書を集大成した人々の誤り)、さらに江戸時代日本語訳で台を当てはめた。
・魏志倭人伝に言う卑弥呼の敵国 狗奴国とは、出雲を源流とし、大和飛鳥以東へ拡大したクナト国であり、争った当時は、奈良葛城をも中心範囲とするクナト国でもあった。クナト国がクナ国(狗奴国)と伝聞誤記された。
・記紀の神武天皇は、朝鮮半島北端帯方燕から南下した公孫淵の一派常世氏(連:オモイカネ)を源とし北倭から来たイニエ王(印恵王)の息子(イクメ(生目)大王)のことであり、天孫降臨神話の瓊瓊杵尊(ニニギ)は神武天皇の父イニエ王(印恵王)であり、また『古事記』では神武天皇はあいまいに御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)「北倭(というよりは北の高句麗)の任那(ミマ)から(やまとあるいは倭に)入って来て王になった」 と記紀編纂の時に命名された。2代の出来事を総合している。また神話の山彦でもあり、卑弥呼に寄り添った唯一の従者と魏志倭人伝に記載されている。東征の拠点としたのは九州平定の最終地宮崎当時都万国であり、魏志倭人伝では投馬国と漢字があてられた。都万国は東征の拠点であり伊都国はそれ以前から拠点であった。記紀編纂では、魏志倭人伝に記述された卑弥呼やその周辺での倭内の争いを記述したくなかったため、あえて改名し、神話としてぼかした。ぼかしてはあるが、このようにつなげることのできる歴史情報は記紀内に記述されている。
・日本は数万年前縄文の古い時代にマンモスを追い移動した人々と、その後紀元前1500年前に到来したシュメール人が融合した民族が文明の源流だ。紀元前1500年は新縄文人の始まりともいえるし、弥生時代の始まりともいえる。その数百年後 紀元前1000年前頃からアジア大陸より半島や山東半島を経由して移動してきた多様な人々が、さらに融合した。多様な人々ではあるが、シュメール世界航海民族を源流とし、その後古代ヘブライ文明を築いた人々が多数移動融合した。島国であるため、紀元前200年頃までは、争いの少ない連合国家を形成していた。その後 世界的気候変動による凶作から人々はある時期は争い、そして次の世代では、それを乗り越えるために融合し、たくましい融合民族になっていった。
次回は、欠史七代を詳細につなげていき、また神武東征後の大和や日本列島の様子をもうすこしまとめていきたい。
これらの事案は、いままであぶり出したように、生い立ちに、争いも多く、悲しい場面も炙り出さざるを得ません。
しかし、その多様な経緯の人たちが、日本列島に集まり、民族が融合しながら、それを乗り越えて、いつかは平和で穏やかな国を作りたいと、願い、大変なを努力して、私たちの今があると痛感します。その志を引き継いで大切にしていきたいと思います。
この歴史情報を繋いだ取り組みが、なにかの参考になれば幸いです
鈴村延保 平成30年 2月 3日
追記随時 平成30年 5月 5日
平成30年 8月 8日
平成30年10月10日
平成30年12月15日
平成31年 1月10日
平成31年 3月13日
令和 2年 1月16日
令和 3年 2月22日
令和 3年12月26日
令和 4年 4月14日